昨日書いたように、今後進展する社会のリゾーム化と分断は、必ずしも悪意や愚かしさによってではなく、むしろ善意や賢明さによっても引き起こされる(と予測される)点に注意する必要がある。
これは「Neuro-sama、沙耶の唄、『共感』という病」で述べたこととも深く関わるが、世界の見通し難さゆえに、悪意なき環境への最適化が悲劇をもたらすとも言い換えることができる(既述のように、「事実は小説よりも奇なり」という事態が観察されるのもそのためだ)。
ここまで非常に抽象的に思われるかもしれないが、こういう世界の見通し難さを追体験させるような傑作が時折世に現れる。それが前にも紹介した「魔女の家」である。詳しくは冒頭の紹介動画を参照してほしいが、この作品は良作のホラー脱出ゲームであると同時に、それをしっかりとプレイする=1視点に最適化することが、ある最悪の事態を招くのを追体験することになる。
(様々な背景への知識や広い視野を持ちがたい以上は)個人もしくは狭いコミュニティの「善」とはしばしばこのような性質を持つのであり、(プレイヤーが)悪意なくそれに最適化して行動するとどういう結果を招きうるか、という世界の一端を体感することになるだろう。
そしてさらに言えば、かといって大きな組織の利益を追求することが善き結果をもたらすとも限らないわけで、またとある歌にもあるように、「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていた」こともしばしば起こるわけで、何か特定のものを採用したら後はそれでAll OKなどということはなく、ゆえに「永遠の微調整が必要」という話になるし、そのことに倦んだら、いつでもノイズの排除されたメタバースが貴方を待っているというのが近い将来の世界だ。
そこに一度身を浸したら、羊水の外へ戻って来ることが困難な人も多くなるだろう(そうでない人ももちろん一定数いる)。そして繰り返しになるが、そのような動向やそれによる分断・リゾーム化を止めることは極めて困難だろうと思うのである。
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