君が望む永遠レビュー回顧~「ヘタレ」への怒りから~

2009-06-11 22:16:58 | 君が望む永遠
最近は鳴海孝之の「ヘタレ」「感情移入できない」という評価に関する記事を書き続けているわけだが、改めて君が望む永遠関連の記事を見渡してみると、鳴海孝之に対する「ヘタレ」やら「感情移入できない」といった評価の問題を自分がいかに重視してきたかを再認識させられる。そこで今回は、「サブキャラシナリオの批判性」を書く前段階として、どのような経緯で私の君が望む永遠関連の記事が上記のような特徴を持ち、かつそこからどのように方向転換をしたかについて述べておきたい。


きっかけは、記事を書く準備として色々なレビューを見て回ったことだった(最初の記事である「涼宮家の人々」から次の「君望レビュー見てて思うこと」まで三か月経過がしているのはそういう事情もある)。そこに広く共通していたのは主人公への不快感の表明だったが、正直な感想は「レベルが低すぎる」というものだった。不快を表明するにしても、足がかりとなるものは山ほどある。たとえば「遥の告白を断れないのに、受け入れた後は受け入れた後でうじうじ迷いやがるんで見ていてむかつく」「水月と別れると決めたにもかかわらず、彼女が慎二とヤったことを知ると怒り、結果としてではあっても水月を殴った自己中野郎」…サブキャラシナリオでの行動(cf.「サブキャラシナリオの害悪」、「穂村シナリオ斬り」、「蛍シナリオ斬り」)も含めれば、批判の材料は飛躍的に増えるだろう(余談だが、水月を殴るシーンは慎二の方を支持する人が大多数だったに違いない。アニメ版において慎二の言動が大きく変化したことは、この推測の正しさを証明している)。これらをテコにしていくらでも批判を展開できるはずなのだが、それにもかかわらずそういった論じ方が全くないというのは……


本当にちゃんと読んでいるのかコイツら(kanonと合わせて「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」)?描かれている孝之の苦悩も読めてないんじゃないか?孝之の批判と比べると水月たちを批判した記事が圧倒的に少ないのも何だかおかしい。「遥はともかくとしても、何で水月はこんなダメ野郎のために身を持ち崩して精神崩壊までしそうになってんだ?」とかね。えっ、それこそお前の言った水泳の話とかどーなるんだって?おいおいそしたら孝之の苦悩はどーなんだよ。両者の間にある評価の歪さは……(っとくると「なぜ『感情移入できない』のか」の内容や全能感などに繋がるわけだが、このような構想ができたのはまだ先の話)。


というわけで具体的な描写を再確認してちゃんと考えろボケ、的な内容にした。さらには、きちんと読めない原因となっている(と思われる)「感情移入」や「共感」という枠組みの否定・相対化をはかったのであった。しかしそれは、「感情移入」なるものが「本当にあるのか?」という内容だったし、孝之が選べずに苦悩する理由を本編から具体的に拾い上げて説明するという手法も、結局は「だからヘタレという評価にはできないよね」というように受け取られてしまう、言いかえれば孝之が「本当にヘタレか?」という視点で書かれており、最終的には人生観の問題にまで踏み込むことになるため、「ヘタレ」「感情移入できない」と言う人たちに再考を促すことは元々難しい内容になっていた。それだけならまだいいが、距離をとりつつプレイしている人たちにとっては釈迦に説法でしかなかったと言える。要するに、誰にとっても有用性の低い記事になっていたのであり、実際この手の記事を書くと毎回アクセス数が落ちたことは今でも思い出される(もし「真理の言葉」で説得を試みるなら、人生観などについて本気で準備をする必要があった)。本来的には、そんな低レベルな話じゃなく、「一人を選ぶべし」なるファシズムが存在するという見方(「端的な事実性」という視点で反論は可能)、少年小説と少女小説といった二項対立的見方(関係性の描写とそのレベル→「君が望む永遠と『感情移入』」で若干触れた)、あるいは「なぜ『選べない』主人公を、一本道のシナリオではない、しかも選択の幅が売りの恋愛ADVで採用したのか」(単なるネタレベルならこれは問題にならない)といったより核心的な話をすることもできるし、またしたくもあったのだが、見てきたレビューのあまりのレベルの低さにそんなことを書いてもしょうがないと思い、結局「ヘタレ」「感情移入」の問題を専ら扱うしかないと考えていた(細かいものでは、そもそも「君が」望む永遠であり、つまり「私」が主になっていない、といった話もある)。


そういった苛立ちゆえにますます文章に怒りが混入して質が低下…という負のスパイラルにはまり込んでいたわけである(まあ有用性低い上に説教臭かったらそりゃダメだわなあw)。本来的には、ここで戦略ミスに気付いてとっとと受容分析(なぜ「ヘタレ」だと評価されるのかという視点の導入)をすべきだったが、それでもしばらくそのような手法に拘ってしまうあたりに、弁証法的な論じ方というか真理への信頼・拘泥がほの見えたりもするわけだ(cf.「YU-NOエンディング批評について」。まあそのような自覚ゆえに、「解釈の多様性」やら「二項対立的視座と両義的態度」といった記事を書いてもいるのだけど)。そのような反省のもと、「本当にヘタレか?」という論じ方から、現状のような受容分析及びサバイバーズ・ギルトという視点で論じていくというアプローチに変えた経緯については「君が望むサバーバーズ・ギルト」でだいたい書いた通りなので繰り返さない。


さて次回は、いよいよサブキャラシナリオの持つ批判性へと言及し、「ヘタレ」「感情移入できない」という評価の浅薄さを理論的な側面から明らかにしたいと思う。

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