「自明」なことを再考する意味:数学の公式を例に

2006-02-13 23:18:14 | 抽象的話題
このブログでは、共感や感情移入、生と死といったプライマリーな、およそ自明のことのように思われている事柄をしばしば扱っている。おそらくこれらは、10人に話せば9人は「そりゃそーだろ」と今更なにをと言うなような内容であろう。だがそれは果たして実感されているだろうか?言い換えれば、自分がそのことを問われたときその言葉がはらむ虚構性などを説明できるのだろうか?おそらく多くの人はまとまった考えを提示できないのではないだろうか(全ての人ができないとはむろん思わないが)。なぜなら「自明」とは、深く考える必要のない事象を指すのだから。

ここに問題があるように私は思うのだ。これについて、性質の違いから誤解を招くおそれはあるが、算数や数学で習う公式が例としてわかりやすいと思う。 我々は公式を教わって問題演習を行うわけだが、その際「公式がどのようにして成り立っているのか」「それが意味するところは何なのか」と考えた人はどれほどいるのだろうか?ちなみに私は、せいぜい三角形の面積を求める公式の意味を考えた程度で、あとはほとんど機械的に覚えたものだった。それは確かに、興味がそれほど無かったとか、他にも覚えるべきものが色々あったという事情も関係してはいた。しかし、より本質的な理由は、「公式を深く知ることがなくても問題が解けるから」という現実だったように思う。早い話、考える必要がなかったわけである。もちろん単純に「勉強」ということならそれでもいいだろう。しかし、結局そういった姿勢・ものの見方をしていると、例えば「円周率が3.14であることを証明せよ」といった問題に当たったとき立往生してしまうことになるのだ。 結局、「自明」を疑い、考えることを知らなければ、前提や本質が問題になった時対応できないという状況にしばしば陥ってしまうだろう。そこから、ましてや「自明」を土台にした日常の問題演習の意味・内容を考えたり分析したりすることなどありえないだろう。これを日常の話に置き換えると、認識の仕方や言語概念といった「自明」のものを疑うことがなく、ゆえにそこから生まれた結論への疑い・意味付けもなおざりにしてしまうのである。日常における「自明」な事柄は、数学の公式などと比べて非常に相対的なものである。ゆえに、それを疑い、対象化し、分析する姿勢は、数学の公式に対するそれ以上に必要なものだと言うことができるだろう。

以上のような認識にもとづいて、本ブログでは「自明」とされる事柄を追求し、その相対性や虚構性を提示しているのである
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