「政教分離」について語られるこの動画を見た時、改めて言葉が独り歩きしがちな現状というものを思わざるを得なかった。そのことは、一国の首相レベルでの「憲法」であったり「立憲主義」であったりへの無理解・無頓着といった少し前に話題になった驚愕すべき事実を連想させるが、それはたとえば巷間言われてきたような、「日本人はprincipleを軽視するものだ」といった国民性の問題というより、そもそも教育機関でそのような思考訓練をされてこなかったことが大きいのではないか。フィンランドの教育の仕方や投票率の高さと日本を比べてみるとき、そのような考えが浮かんでくる。「近代化」とは何か?「国民国家」とは?「資本主義」とは?「信教の自由」とは? などと言えば抽象論に聞こえるだろうが、要するに私たちの社会がどのように成り立っているかを考え、理解する営みが必要ということである(これはマイケル=サンデルの講義がわかりやすいだろう)。
たとえばドイツでは、ナチスやその土台となる思想を禁止することを原理として定めている。それは「思想・信条の自由」という原理と抵触するようにも見えるわけだが、前者の原理を社会的意思として優先・決定させたわけである(とはいえ、少なくともリベラルの立場にたつならば、そもそも「他者を暴力的に迫害・排除せしめる思想・行動は容認できない」というのが原理原則なのであるが)。では、同様の敗戦国である日本の場合、一体何を禁止したのであろうか?それは具体的には「国家神道」と名指されるものであるが、では国家神道とは何であるかを一体どれだけの人がそれを具体的に説明できるのであろうか。それを知ることなしに、「思想・信条の自由」や「信教の自由」とどのように切り結ぶのかを論じることもできないのだが、少なくとも私が高校までで学習してきた範囲でその言葉を聞いたことはただの一度もない。意識的なのか無意識なのかは知らないが、少なくともそのように「拠らしむべし」的な教育を行っておれば、無知となって表面的な行動や言葉に一般の人々が反応するしかなく、またそのような者達が選ぶ代表もまた的外れな言動・行動に終始するのは至極当然のことのように思うのだが。
村上重良的視点であれ島薗進的視点であれ、あるいは平泉澄的視点であれ葦津珍彦的視点であれ、その考え方を示して今の日本の拠って立つ土台は何なのかをゼロから思考させることがなければ、流れに引きずられる以外では自らの足もて一歩も前に進むことはできないのではないか・・・カタルーニャやスコットランドの独立運動、あるいは卑近なところで「ナマポ」批判とリベラル・ナショナリズム(ともに弱者救済や再配分が我々の社会・生活とどのように関わっているか思考することにつながる)が取りざたされる今日、強くそのように思うのである。
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