「弥助」という人物が動画で取り上げられているのを見たのは二週間前くらいだったか。その時は「北野武の『首』でも登場してたヤツが侍かどうかが何で話題になってんだ?」くらいにしか思わなかった。
で、他にあれこれ忙しいのでスルーしていたが、取り上げる動画数が確実に増えてきたので、呉座勇一のものなどを見たのがおよそ一週間前。まあ概ね状況はつかめてきたので、このブログでも取り上げることにしたわけだが、注意点を二つ書いておくと、①弥助のことが欧米で広く認知されるに到った原因らしいトーマス・ロックリーの説とその波及状況には言及しない(いずれ別の件と絡めて書くかも)、②弥助問題そのものの詳述というよりは、その現象から見えたある程度一般化可能な問題について述べる、というのを前提としている。あくまで「アサシンクリード シャドウズ」の領域に問題を絞り、かつ時系列に沿ってくだくだしく過程を説明することはしないよ、ということだ。
では結論から。今回の問題が大きくなった背景にあるのは、
①オリエンタリズム=誤った日本観と②ポリコレ(マイノリティの主役化)のごった煮を、③「史実」として上から目線で押し付けてきた、という3つだと考えられる。これは3つの要素が別々に存在するというよりは、それぞれが関連し合っており、どれか一つが欠けてもここまでヘイトを生むことはなかったと思われる。
冒頭の「いつかやる」でも紹介されているように、例えば①だけで③の要素がないなら、おいおいと突っ込みは入るものの、「まあゲームやしな・・・」という感じで多くの人にスルーされていた(=一部の人間の反感で大きくはならなかった)可能性が高い。
しかし、①で随所に見られる誤った描写を垂れ流しながら、②では弥助をやたら持ち上げる描写を行い、③のようにのたまった上で、さらには①や②を批判した人間に対し「レイシスト」呼ばわりしたことで、少なからずヘイトを買ってしまったという訳である。
ちなみにこの構図がわかりにくい人は、前にも述べた「なぜ大手マスメディアはマスゴミと言われるようになったのか?」を考えてもらうと良いのではないか。すなわちち、自分たちは日々不祥事を起こしながら、しかし俺たちがお前たちに正しい価値観を提示するとばかりにニュースやら流行やらを放送し、そして批判に対しては「一般人とは違うんです」などと言ってしまうような態度を鑑みれば、ヘイトを買うのは当たり前であるとともに、今回の弥助問題がなぜここまで反感を持たれるようになったのかはわかりやすいのではないか(「傲慢で誤った啓蒙者」とでもいったところか)。
とはいえ、大手マスメディアへの反感はあくまで現実の話だろという反論がもちろん出てくると思われる。実際、企業側が「史実」だとか「本当の歴史を教えてあげよう」だとか言ってわざわざ自分の足元に地雷をばら撒く行為などせず、大人しく「この話はフィクションです。現実と関係などあるはずがありません(うみねこ並感)」とでも書いておけば、いくらでも言い逃れできただろう。ではなぜ、弥助関連の描写が事実であると喧伝するような愚行を犯してしまったのだろうか?
ここからは予測になるが、その後押しをしてしまったのが、ポリコレというバイアスだと思われる。つまり、「東洋におけるマイノリティ=黒人が活躍する場面を描写する=正義」という思い込みが、「極東の遅れた地に正しい歴史と価値観を教えてやる」という独善的で上から目線の対応を可能にしたのではないか、と。そして「高邁な」理想のために作品を作っているのだから、肖像権やらは軽視しても問題ないのだ!とばかりに目的が手段を正当化するような発想になるし、またファクトに基づいた反論も、「理想を否定する異端者」のそれと重なって見えるため、「レイシスト」と決めつけることもできたのではないかと思われる(まあここまで意識的であったかどうかはちょっと怪しく、実際はもっと単純に頭が悪かっただけの可能性が多分にあるw)。
しかもその一方で、自分たちの日本に対する無理解=オリエンタリズムの垂れ流しには無頓着なのだから恐れ入る・・・と言った時に、ヨーロッパが世界各地を非キリスト教の劣った地域とみなして行ってきた蛮行や、近代以降の帝国主義の中で行ってきた所業を学びなおしてみるとよいのではないか(そこでは黄禍論や排日移民法、強制収容といったことも出てくるだろう)。
そして自分たちの祖先が行ったことへ真摯に向き合ったならば、今回のような馬鹿げた言行はできようはずもないし、心根はともかく表面的にはよりいっそう慎重な態度を心掛けるのではないだろうか。なお、公平を期すため言っておくなら、これはもちろん欧米だけの話ではない。例えば、日本人がいかに欧米を理想とする一方でアジアを空気のようにみなしているかは、欧米と日本はこんなに違うと強調しながら、アジアとの比較は無視する「脱亜入欧的オリエンタリズム」が横行していると何度も私は批判してきたし、例えば鈴木大拙などが「東洋」という枕詞でその特性を語る時、そのカテゴリーにはもちろんモンゴル高原や中近東も入ってるんだよなあ?と私は思わず突っ込みたくなるのである。また、「『保守』の立脚点とその欺瞞:『同性愛=悪』とみなす歴史について」では神道組織が「同性愛=精神障害」とする資料を自民党議員に配布していたことを批判的に取り上げたが、これは日本の衆道といった歴史的実態(ファクト)を無視した言説をまき散らしながら(つまり近代以降の価値観にどっぷり浸かりながら)、一方で自分たちはその歴史の長さを喧伝する(近代より前の歴史を利用する)という欺瞞的態度を指摘したものである。
さて、今回の件では、ポリコレがもはや「21世紀の新宗教」となり下がり、歴史修正主義の片棒すら担ぐようになっている様が露呈したと言っていいように私には思われる。そして『シオン賢者の議定書』という偽書を用いてユダヤ人へのヘイトを煽ってナチズムを広めるのも、穴だらけの説を元に遠い世界でマイノリティが活躍していたのを「真実の歴史」と決めつけるのも、ファクトフルネスの真逆という点では全く同じという点に注意を喚起したい(まあこのあたりは、プトレマイオス朝=ヘレニズム王朝&ハム系が中心の地域にもかかわらず、クレオパトラを黒人化したドラマを作ったことを思い出してもよいだろう)。
そして事実ではなく信仰を元に過去を決めつけて改変し、あまつさえそれに反論するのは狂人だと評するような態度は、なぜポリコレが忌み嫌われるようになっているのかを説明して余りある。繰り返すが、それは「多様性」や「平等」を謳いながら、その実はキャンセルカルチャーも含め、ただの押し付け・抑圧装置、いやもっと言えば今世紀の異端審問・魔女狩りになり下がってさえいるのである。その教訓的事例として、今回の騒動は覚えておくべきだと考える。
以上。
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