ひぐらしのなく頃に卒第10話:罪と罰、あるいは帰責性について

2021-09-03 11:22:22 | ひぐらし

ちわーす。やっとひぐらし卒10話が見終わったムッカーですがみなさまいかがお過ごしでせうか。いよいよ祟明し編も佳境という感じですが、まあとりあえず感想を書いていきますよと(ちなみに第8話の感想はこちらで、第9話の感想はこちら)。今回も描写自体から真相を考えることより、それがテーマ的にどのような意味合いを持つかの方が気になる回でしたわ。

 

〇沙都子の精神に亀裂が入る

それで、猫騙しの涙(もう梨花殺したくないっス😫)になるわけか。

 

〇団結(力)は間違った方向にリードされることもある

てな話は、旧ひぐらしの憑落し編(PS2版)でも見られたが、今回の描写だと単に「沙都子ってヤツはゲロ以下、はっきりわかんだね(・∀・)」で話が終わってしまうので、群集心理の恐ろしさみたいなのを視聴者に認識させる効果はまあないでしょうなあ。

もうちょい違った描き方なら、コロナ禍で露顕した地方の閉鎖性や排除意識、非合理性なんかを連想させるものになったかもしれんが、まあそもそも構想時がコロナ前だからしょうがないね。

 

〇沙都子の分裂現象

操られてる?というより・・・梨花とベルンカステルみたいなもんか(あるいは鷹野とラムダデルタ)。

 

〇分裂することで世界に亀裂が入る

やはり虚構内虚構か。

 

〇北条家が「赤い部屋」になっていた理由

作中人物もしくは観察者が症候群になっていることの暗示かと思っていたけど、鉄平は殺されてるのにバーサーカーモードになるわけで、まあ要するに時空が歪んでるみたいな話なのかな、かな?

 

〇沙都子の分裂が意味するもの

もし仮にこれが沙都子の「免罪」と「救済」(大団円)のための演出なんだとしたら、さすがにちょっとレベルが低すぎて引くわ~(逆に言えば、そうでないことを祈りたいね)。

 

なぜかといえば、罪と罰(あるいはその人にどこまで責任を帰せるかという視点=帰責性)は旧ひぐらし・前作の「ひぐらし業」を通じてしばしば物語に陰を落とし、それが予告された大団円へと向かうにあたって緊張感を生み出す大きな要素となっていたからだ。

 

例えば、祭囃し編で入江が雛見沢症候群を研究することになったカケラを思い出してみるとよい。彼の父親は頭部に重傷を負ったことで(おそらく)脳に障害が残り、人格が大きく変容して暴力的になった結果、疎まれながら死んでいった。入江はそんな父の変化が「人間的におかしくなった=父親の自由意思に帰せる=自己責任」ではなく、脳の損傷によるものだと証明するために研究者となったが、そこで彼が研究の過程で行ったのがロボトミー手術であった。しかし、それが否定され表立って研究できなくなった入江が「東京」に注目され、雛見沢症候群の研究に尽力することになる・・・というお話だ(ちなみにこの「どこまでが自由意思か」という問題は、依存症を理解する上で極めて重要な視点になる。というのもそこには、脳内物質に方向づけされる人間=動物的側面の理解が必要不可欠であり、近代にありがちな理性・自由意思信仰をもってそれに対すると、症状が治らないばかりか、より悪化させてしまったり誤った抑圧を生み出したりするからだ→先日書いたVtuberとセーフティーネットの記事も参照)。

 

あるいは、雛見沢症候群と数々の事件を思い起こしてもよい。特に沙都子が両親を殺してしまったことを梨花が「不幸な事故」と呼んだのは典型的だが、十全な認知能力や理性的判断を欠いた状況での帰責性、すなわち罪と罰はどのようなものになるのだろうか(どのようなものであるべきか)?という点は明確にされないまま終わっているが、例えば罪滅し編で通り魔的犯行を以前行っていた圭一の悔悟、そして澪尽し編のラストで見ることのできる昏睡状態の悟史といった形で、いくつか暗示的に示されてはいると言えるだろう(それは懺悔してどうこうではなく、ある意味一生背負っていくべきもの)。

 

この問題意識が病や障害にとどまらないことは、田無美代子(とあえて書くが)の生い立ちと生育環境、そして彼女が犯した数多くの罪(自分の研究の邪魔をする者の謀殺から、無辜の民の大量虐殺まで)はどのように贖われるべきか?と祭囃し編のラストでは投げかけられて終わっていることからもわかる(これは要するに、罪と罰や帰責性の話が、単なる犯人探しや吊るし上げの「ガス抜き」や「溜飲下げ」に堕しやすいことへの警鐘でもある。ちなみに帰責性についての問題は、國分功一郎の「中動態から考える利他」も参照)。ちなみに、今回のひぐらしもそういったテーマを意識した話になっているとでも言わんばかりに、郷壊し編では鷹野視点で回想や悔悟の念が語られる場面がしっかりと描かれていた。

 

というわけでいくつか具体例を挙げながら長々と書いてみたが、もう一度繰り返すと、「罪と罰」や帰責性はひぐらしという作品における一本の重要な柱をなしており、それは「ひぐらし業」にも引き継がれていたと言う事ができる(一体何の咎で梨花は再び惨劇はびこる世界を繰り返さなければならなくなったのか?=こうなってしまった罪・業とは?と考えた人は多いだろう)。

 

となれば、この「ひぐらし卒」も同様だと考えられるわけだが、「悪いのは人間を唆した神様で、元の人間関係はてぇてぇでした。だから悪い神がいなくなったら無問題=大団円でにぱ~」とかだったら、正直「ひぐらしの世界を卒業する」には最悪に近い終わり方と言っていいのではないか、と懸念しているのだ(まあそうなったらある意味完全に卒業したくはなるがw)。

 

まあ分裂するという展開は今回が初めてなので、詳しい説明はこれからなされていく部分もあるのだろうが、ひぐらし卒どころか、ひぐらし全体の根幹に関わる部分だと思うので、注視していきたいと思う。


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