カケラ紡ぎの意図と効果~大団円へ向けての演出~

2009-01-02 21:34:54 | ひぐらし
世間(?)はうみねこ第四話で熱くなっていると言うのに、ようやくアニメ版の「ひぐらし解」を見終えたり、いまだ祭囃し編プレイ中と浮世離れしているぎとぎとですが、みなさんいかがお過ごしでせうか?さて今回は、以前の「ひぐらし祭囃し編再考~カケラ紡ぎの意味などについて~」で扱ったカケラ紡ぎの意味及び演出的効果について改めて述べていきたいと思う(なお、最後に付録として祭囃し編における羽入とプレイヤーの関係の描き方に関する訂正記事を載せる)。


(Ⅰ)
罪滅ぼし編での圭一の「奇跡」が、皆殺し編では何の説明もなく部活の仲間達に起こっており、これが「ご都合主義」と批判された可能性が高い。とはいえ、一々そのレベルからのやり取りを描けば冗長になってしまう(※)。


ちなみに澪尽し編では羽入が裏で奔走し(≠プレイヤー)、圭一と梨花が沙都子・レナ・詩音の問題を個々に解決した上で団結を勝ち取っている。この各個撃破とでもいうべき描き方もまた、皆殺し編の「奇跡」のご都合主義(という批判)を乗り越えようとして生み出されたものだろう(そこに選択肢があり失敗の可能性が示されているのもその理由で説明できる)。


(Ⅱ)
そこで、そのような「奇跡」が皆に起こる必然性を持つ、今までの惨劇を全て乗り越えた世界を用意する必要がある。


(Ⅲ)
とはいえ、それを所与のものとしてプレイヤーに提供することはできない。というのは、それが皆殺し編最後のメッセージ(羽入への批判と“you”)と矛盾するだけでなく、「ご都合主義」の批判を免れえないからだ。ゆえにその「奇跡」は、皆殺し編の結末に満足しない羽入=プレイヤーが主体的に作り出したものであること(という演出)が重要となる。こうして、カケラ紡ぎという形式が採用された。


(Ⅳ)
しかし一方で、「奇跡」すなわち記憶の継承があまりに強いレベルで行き渡るのは困る(ここでは詳しく述べないが、アニメ版では村人が皆殺し編の記憶を継承して沙都子に優しく接している様が描かれている)。確かに惨劇の記憶がそれを乗り越える契機を生み出すわけだが、かと言って鷹野が犯人であることや大災害の記憶(≒事件の真相)まで継承されては物語展開上不都合なのだ。例えば鷹野が犯人だと部活メンバーが最初から知っているような状況は、またもプレイヤーを受動的立場に置くこととなり、カケラ紡ぎで演出した主体性・能動性とうまく連動しなくなる(※2)。しかしながら、他の惨劇の記憶は継承しているのに鷹野のことは記憶の彼方…というのはいかがなものか?それはやはりご都合主義ではないのか?そういうわけで、最大の当事者たる梨花が犯人を忘れるという風にし、他の人間が覚えていなくても自然だと思われるようにしたのだろう。

※2
祭囃し編の世界において、羽入は主体的・能動的であろうとするがゆえに昭和58年の世界に顕現できたことを想起したい。以下に羽入顕現のロジックを本編から引用しておく。

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何かに賭けるということは、何かを信じるということ。
何かを信じるということは、何かに関わるということ。
何かに関わるということは、いるということ。
だから彼女は今こそ、“いた”
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(結論)
カケラ紡ぎとは、羽入とプレイヤーの共犯関係を形式的にも成立させることでプレイヤーを巻き込むとともに、理想的な世界を主体的に作り出させてなるだけ「ご都合主義」の批判を回避することを目的として採用されたと考えられる(カケラ紡ぎの冒頭にのメッセージは、「皆殺し編の惨劇を必然的なものとし、それを乗り越えるためのこれからの作業をご都合だと考える人はここでゲームを降りて下さい」という意味にしか読めない)。要するにカケラ紡ぎは、大団円をプレイヤーに受け入れさせる上で非常に重要な役割を果たしているのだと言える。以上。


<羽入とプレイヤーの関係性>
以下では、「大団円で隠蔽されたもの」の誤りについて書くことにする。前掲の「ひぐらし祭囃し編再考」でカケラ紡ぎを分析した結果、それがプレイヤーとの共犯関係を成立させる演出だと述べたが、とするなら「大団円~」で書いた

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もっとも、羽入は神というよりむしろプレイヤーのアナロジーとして描かれているのだからその批判は不適切だ、との反論が出てくるかもしれません。要するに、描かれているのは「神の力」ではなく「プレイヤーの願い」による「奇跡」なのだ、というわけです。なるほど確かに皆殺し編ラストで「you」が流れていたことから作者の意図はわかりますが、それが成功しているとは正直思えない。羽入の発言がウザいという発言が少なからず見られるのを考慮に入れると、彼女を自分の分身のように見立てていたプレイヤーが果たしてどれだけいたのか大いに疑問があるからです。そういった反応もあって祭囃し編では(プレイヤー≒神という側面は残しつつ)羽入が明確な他者として描かれているのでしょう。
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という内容は明らかに誤りである。「羽入=プレイヤー」という図式が皆殺し編において成立しなかったという推測はある程度的を射ていると思うが、祭囃しにおいてはその結果「羽入=他者」という描き方になったのではなく、むしろカケラ紡ぎによって「羽入=プレイヤー」の図式が強く意識されるような演出がなされているのである。このように私が誤認してしまった原因は、カケラ紡ぎ以降、つまり羽入が昭和58年に顕現して以降だけが印象に残っていたためだと推測されるが、とにかく上記の見解が妥当性を欠いていることだけは確かである。

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