いつものようにSS22を聞こうとあれこれ探していると、「西田藍」という人がフィリップ・K・ディックについて語るという回を見つけた。この人物について何も知らないけど話の中身あんのかな?と最初疑ったが、懐かしい作家の名前なので耳を傾けてみることに(ちなみに、「知らない人物が書評していたとしても、もしこれが男性だったら果たして今のような予見を抱いただろうか?」と自らのミソジニー的側面を再認識した次第)。今回は、そのついでにディックの作品とその周辺に関して少し書いていこうと思う。
さて、フィリップ・K・ディックー映画「ブレードランナー」や「マイノリティリポート」の原作者と言った方がピンとくる人が多いかも知れないーはその多層構造的な世界観を描いていることが作品の大きな特徴となっている(ちなみに麻薬・薬物の話も出てくるが、この作家自体が重度のLSD患者で、その作品群は実体験に拠っているようだ)。たとえば前にも紹介した『ユービック』・『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』はその代表で、脱出したはずがそこも果たして現実なのか・・・という展開だったり、トリップできるキャンDより有効な薬物チューZ(なんなんだろうこのネーミングはw)を投与された結果現実がどんどん侵食されていくという話だったりする。これは本に限らず、「ブレードランナー」では主人公が人間の創作物(想像の産物)たるユニコーンの夢を見たり(主人公は本当に人間なのか?)、「トータルリコール」では脱出したはずなのにそこも仮想空間の中である可能性が残されていたりする。
私はこのような構造の話に非常に興味がある。それは、われわれ人間が見ているものも脳が情報を処理して得られたものにすぎない(この世界の「ありのままの姿」など存在し得ない、というか観測し得ない)にもかかわらず、私たちがそこにしばしば「真理」を仮構してしまうという抜きがたい性質を相対化してくれるからだ(この視点は現代固有のものではもちろんなく、たとえばウパニシャッド哲学の発想や荘子の「胡蝶の夢」、あるいはデカルトの有名な「コギト」やヒュームの『人性論』も今述べた不確かさの認識を前提に生まれてきた考えである)。このような想像力は様々な作品を生み出してきたわけで、たとえばそういった思考・行動にドタバタ感をいれると筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』になるし、あるいはより認知科学的な方向に進むとグレッグ=イーガンの「しあわせの理由」や「祈りの海」などとなる(あるいは「沙耶の唄」もまた違う形でそのような問いをもたらす傑作の一つと言える)。そしてディックの作品はそのような想像力を様々な形で表現したという意味で今日においても十分に読む価値のあるものだと思う。
まあ「全ては夢よ」と言ってみたところで私たちが今まさに生きて(しまって)いるという端的な事実の前にはあまり意味がないが、それでもディックの作品を読んでいると次のようなことを思ったりする。もしも技術が発達して「この人と一緒にいたい」「この人しかいない」といった感覚が操作可能になったならば、その時家族や対人関係の形成はどのような変化を迎えるのであろうか、と(国民国家などの話を持ち出すまでもなく、どこまでが「われわれ」の範囲なのかという境界線の問題にも大きく関わる)。何もしないならば嫌いになるはずの人を、薬物の結果好きになって不快に感じなくなるのは、果たして幸福なのか、不幸なのか、と。今日国内経済の衰退や国際情勢の不安を元に「自由からの逃走」へと向かっていく人たちを見るにつけても、そのようなことを思う次第である。
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