さて、前回共感という幻想の危険性について書いたが、長く一緒に生活をした人々の親和性の高さ(※)やスタジアムの雰囲気の影響などと、「君が望む永遠」、「カラマーゾフの兄弟」、「ビギナー」が対照的であると述べ、その違いを敢えて書かずに終了した。今回そこから再開しよう。
※
もっとも、長年連れ添った夫婦も離婚するのであり、長く付き合うこと自体が良いとか、それがそのまま共感に繋がるとは言うことはできない(社会的制約、忍耐、妥協による関係の持続など)。
今述べた両者の違いとは、経験や感覚の共有という点において後者が明らかに劣っていることに他ならない。もう少し詳しく書いてみよう。例えば私の「共感は幻想である」という論に対しては、「双子や長く濃密な関係を築いた人間同士がシンクロする例はどう説明する?」といった反論が想定されるが、それなどはそういう特殊な関係になければ共感は不可能であることをかえって証明するだろう。要するに、日常で会話をしている程度の間柄において共感は起こり得ないのだ(情報・経験の量が絶対的に不足している)。であれば、そもそもが切り取られている虚構の人物やテレビで見た人々に対して共感するのはなおさら不可能であると言える。
しかし、私の見る限り(日本)人は本やテレビ、ゲームやネットなどに対しても共感できるはずだと信じて疑わないようで、相手と直接的な感覚や経験などを共有していないにもかかわらず、ただ間接的な視覚情報や字面だけで「共感できる、できない」と言っている。なるほどスタジアムなどで実際に接したり、寒いという人間の肌に直に触れてみれば、偶然にせよ共感は生じるかもしれない。しかし、距離があって情報量も少ないテレビやゲームに対しての共感はほとんど不可能だ。仮にあるとしてもそれは全く偶然のものであって、共感が可能だと始めから期待するのは重大な誤りであると言えるだろう(※2)。その理由は、(特に)自分で「共感できた、できない」と書く人ほど理解するための努力を怠っている傾向、例えば書いてあることさえロクに読もうとしていないという特徴が見受けられるからである。おそらくその人たちは、相手の文脈(必然性)をたいして考えず、自分が感覚的に受け入れられるかどうかを優先させてしまっているのだろう。要するに、共感の期待は(実は)理解できないだけなのを相手のせいにする体のいい言い訳になっているのであり、むしろ文章などを読めなくしていると言える。
※2
例えば、仮に社会的差別を受けた経験のある人が同様な経験をした人の本を読んだとしても、「著者に共感できた」と言うのは不正確である。なぜなら、その人の生い立ちや感じ方と読み手のそれは同じではなく、共通するのはあくまで「差別された経験」だけだからだ。よって、「自分も同じようなことを経験した」というのならともかく、「自分も同じ感情・感覚を持った」とまでは言えないのである。
本やテレビ、ゲームの感想などで安易に共感の語が使われているのは、この事実が理解されていないからに他ならない。あるいは共感という言葉を濫用する人たちは、「共感できた」と言うことで何かと繋がっている気持ちと対象のことをわかったという思い込みによる心の安寧を得ているのかもしれない(というのも、「共感への疑問の原点」で述べたように理解と比較して共感という言葉には「相手との近似性」「距離感の欠落」というニュアンスが含まれているように思えるからだ)。しかしそういったものに共感できると考えれば、対象は言うまでもなく自分自身の感覚・感情をも検証せず(※3)、勝手に同じであると決め付けるのだ(そこにおいて、「誤読の自由」なるものは自己正当化の役割しか果たさないあろう)。
※3
これについてはファジーの話でも触れるが、感覚や感情の内実を探求すると否応なしに特殊具体性が浮き彫りになるため「同じであるという幻想」が持てなくなってしまうため(無意識なのか意識してなのかわからないが)避けるのだと思われる。
もしこれが現実の人間関係ならどうか?期待の先に待っているのは「裏切り」である。というのも、共感は自分勝手な期待の産物(解釈・幻想)に過ぎないからだ。もしこの経験によって「共感=幻想」だと気付くならまだいいが、多くは裏切った相手が悪いのだと自己正当化を計ることだろう。あるいはまた、相手は自分の気持ちをわかってくれるのが当然だと思い、それを押し付けるようにもなるだろう。要するに、共感ないしそれができるのが当然という考えは、誤解と押し付けしか生み出さないのであり、円滑な人間関係を築くどころかむしろ諍いの多い社会を生み出す原因となるのである(「共感の概念とその濫用」、「不快感の表明が奨励される社会」などを参照。勝手な期待という点では虐待、「空気」なども注目すべき)。
共感がテレビやゲーム、本などに対して通用しないのはもちろんのこと、現在社会の価値観が多様化していることを思えば、それは社会不適合者を量産しかねない有害な「甘え」とさえ言えるだろう(心理学者たちが共感を自然なもののように書くのは、この時代錯誤の同一化傾向に拍車をかけるだけであろう)。そしてまた、この言葉が今も問題になることなく使われているという事実は、メディア化、ネット化、多様化する社会に精神が適応できないこと(=無意識に同一化傾向を引きずっていること)を暗示してもいるのである。
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もっとも、長年連れ添った夫婦も離婚するのであり、長く付き合うこと自体が良いとか、それがそのまま共感に繋がるとは言うことはできない(社会的制約、忍耐、妥協による関係の持続など)。
今述べた両者の違いとは、経験や感覚の共有という点において後者が明らかに劣っていることに他ならない。もう少し詳しく書いてみよう。例えば私の「共感は幻想である」という論に対しては、「双子や長く濃密な関係を築いた人間同士がシンクロする例はどう説明する?」といった反論が想定されるが、それなどはそういう特殊な関係になければ共感は不可能であることをかえって証明するだろう。要するに、日常で会話をしている程度の間柄において共感は起こり得ないのだ(情報・経験の量が絶対的に不足している)。であれば、そもそもが切り取られている虚構の人物やテレビで見た人々に対して共感するのはなおさら不可能であると言える。
しかし、私の見る限り(日本)人は本やテレビ、ゲームやネットなどに対しても共感できるはずだと信じて疑わないようで、相手と直接的な感覚や経験などを共有していないにもかかわらず、ただ間接的な視覚情報や字面だけで「共感できる、できない」と言っている。なるほどスタジアムなどで実際に接したり、寒いという人間の肌に直に触れてみれば、偶然にせよ共感は生じるかもしれない。しかし、距離があって情報量も少ないテレビやゲームに対しての共感はほとんど不可能だ。仮にあるとしてもそれは全く偶然のものであって、共感が可能だと始めから期待するのは重大な誤りであると言えるだろう(※2)。その理由は、(特に)自分で「共感できた、できない」と書く人ほど理解するための努力を怠っている傾向、例えば書いてあることさえロクに読もうとしていないという特徴が見受けられるからである。おそらくその人たちは、相手の文脈(必然性)をたいして考えず、自分が感覚的に受け入れられるかどうかを優先させてしまっているのだろう。要するに、共感の期待は(実は)理解できないだけなのを相手のせいにする体のいい言い訳になっているのであり、むしろ文章などを読めなくしていると言える。
※2
例えば、仮に社会的差別を受けた経験のある人が同様な経験をした人の本を読んだとしても、「著者に共感できた」と言うのは不正確である。なぜなら、その人の生い立ちや感じ方と読み手のそれは同じではなく、共通するのはあくまで「差別された経験」だけだからだ。よって、「自分も同じようなことを経験した」というのならともかく、「自分も同じ感情・感覚を持った」とまでは言えないのである。
本やテレビ、ゲームの感想などで安易に共感の語が使われているのは、この事実が理解されていないからに他ならない。あるいは共感という言葉を濫用する人たちは、「共感できた」と言うことで何かと繋がっている気持ちと対象のことをわかったという思い込みによる心の安寧を得ているのかもしれない(というのも、「共感への疑問の原点」で述べたように理解と比較して共感という言葉には「相手との近似性」「距離感の欠落」というニュアンスが含まれているように思えるからだ)。しかしそういったものに共感できると考えれば、対象は言うまでもなく自分自身の感覚・感情をも検証せず(※3)、勝手に同じであると決め付けるのだ(そこにおいて、「誤読の自由」なるものは自己正当化の役割しか果たさないあろう)。
※3
これについてはファジーの話でも触れるが、感覚や感情の内実を探求すると否応なしに特殊具体性が浮き彫りになるため「同じであるという幻想」が持てなくなってしまうため(無意識なのか意識してなのかわからないが)避けるのだと思われる。
もしこれが現実の人間関係ならどうか?期待の先に待っているのは「裏切り」である。というのも、共感は自分勝手な期待の産物(解釈・幻想)に過ぎないからだ。もしこの経験によって「共感=幻想」だと気付くならまだいいが、多くは裏切った相手が悪いのだと自己正当化を計ることだろう。あるいはまた、相手は自分の気持ちをわかってくれるのが当然だと思い、それを押し付けるようにもなるだろう。要するに、共感ないしそれができるのが当然という考えは、誤解と押し付けしか生み出さないのであり、円滑な人間関係を築くどころかむしろ諍いの多い社会を生み出す原因となるのである(「共感の概念とその濫用」、「不快感の表明が奨励される社会」などを参照。勝手な期待という点では虐待、「空気」なども注目すべき)。
共感がテレビやゲーム、本などに対して通用しないのはもちろんのこと、現在社会の価値観が多様化していることを思えば、それは社会不適合者を量産しかねない有害な「甘え」とさえ言えるだろう(心理学者たちが共感を自然なもののように書くのは、この時代錯誤の同一化傾向に拍車をかけるだけであろう)。そしてまた、この言葉が今も問題になることなく使われているという事実は、メディア化、ネット化、多様化する社会に精神が適応できないこと(=無意識に同一化傾向を引きずっていること)を暗示してもいるのである。
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