共感への疑問の原点:理解と共感の違い

2007-12-30 13:58:01 | 抽象的話題
前回の共感に関する記事で、「君が望む永遠」の色々なレビューを見て共感に対する疑問が顕在化したと書いた。しかし、共感という言葉を意識したのはその七年前、すなわち高校2年の時『追跡者(ストーカー)』という小説を読んでからである(※)。その後書きには「ストーカーの人間の書いた本を理解できた(共感ではない)」と書いてあった(※2)のだが、そうすると「理解」「共感」という言葉は別物であるらしい。では、一体どのように違うのだろうか?短い文章だったしそこまで深く考えなかったが、少なくとも「理解」という反応より「共感」という反応の方がより深く、かつ「相手との近似性」をも示していることはおぼろげに理解できた(その意味で、「理解」と「納得」の関係とは違う)。


さて現在の話に戻るが、共感という言葉を使用する感覚について考えるとき、この「近似性」は最も重視すべき要素であると思われる(概念自体は既に述べた通り)。敢えて極端な言い方をすれば、理解は他者に対してのものである一方、共感は他者に対してのものではない。すなわち共感という言葉には、「距離感の欠落」「同一化」という特徴が見出せるのである。もしかすると、他者と同一化することに喜びを覚える人は、理解より共感という言葉を使用すること自体に価値があると無意識に思っているのかもしれない。というのも、共感という言葉は相手と同一化できた喜びであると同時に、相手と同一化できるスキルを自分が持ち合わせているという自負にも繋がるからである。


……
しかし、例えば本に書いてあることを読んだだけで共感などできるのだろうか?それは所詮字を通しての「解釈」でしかない。自分の解釈を一足飛びに共感にしてしまえるところには、無意識的な同一化傾向が表れているのではないか。



この本を読んだのは原作となったPCゲームと同ブランドの「無垢弐」を持っていたからである。

※2
ちなみに、私はストーカーが嫌いである。というより押し付けがましい人間全般を嫌っている(「涼宮ハルヒと傍若無人さへの怒り」も参照のこと)。この傾向については、「信長が天国に~」の話を書く際明らかになるだろう。
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