ひぐらし祭囃し編再考~カケラ紡ぎの意味など~

2008-11-17 00:32:06 | ひぐらし
いい加減君が望む永遠とサバイバーズ・ギルトの話を書こうと思ったのだが、あと一点だけ、どうしても納得がいかない部分があるので先送りにし、それとも繋がりうるひぐらし祭囃し編再プレイの覚書を載せることにした。なお、前回が「ひぐらし祭囃し~とくに「神」に関して~」という内容だったので、そこを迂回しつつカケラ紡ぎの意味合いなどについて書くことにする。


○(電車)事故の偶然性…尼崎、宗教
宗教の部分については前掲の過去ログで話した通りなので詳しくは触れない。「尼崎」は、祭囃しで描かれる電車事故が福知山線のそれを意識していることを述べたもの(尼崎の脱線事故はサバイバーズ・ギルトという言葉の認知度が高まるきっかけになったらしい)。ちなみに、テレビ版では電車の脱線事故からバスの事故になっているが、これは被害者の反応(PTSDなど)を考慮して変更したのかもしれない。


○戦争で親類を失う
と覚書には書いてあるが、そこから何を考えようとしたのか不明。


○施設…今日の決まりが明日には変わる
矛盾した命令を受ける子供が精神を病んでいく、という話は聞いたことがあるかもしれないが、まあ端的に言えば最悪の環境ってことだ。


○「水を飲めないアヒルの刑」など
実際どんなことが行われているかは伏字になっている。インタビューからすると、作者はあまりの残酷さのため配慮して書かなかったようだが、何をやっているのかよくわからないので怒りのやり場も無く妙な苛立ちだけが残った。だから、残酷であろうときちんと描写してほしかった、というのが正直な感想である。まあ書いたら書いたで不満も出て大変なんだろうけど…


○軍事関連の話…ノモンハンや国際関係の話
状況を説明する目的もあるだろうが、何より作者が「日本軍=絶対悪」という認識に取り憑かれているわけではないと暗示する意図(ちゃんと状況を把握して語っていることを示す)があると推測される。


○祖父と違いバックボーンを得たが、結局祖父と同じく政治に翻弄される。


○「羽入の視点から物語を再構築」
皆殺し編の最後で羽入に語りかける時“you”が流れていたことも想起。まあ要は「プレイヤー=羽入」的な演出がなされているということ。なお、アニメ版について言えば、皆殺しまでの梨花はスクリーン=視聴者に向かって手招きをしているが、祭囃しでは羽入に向かって手招きをしている。これもまた同様な演出と言えるだろう。


○皆殺し編までで閉じる世界を選ぶことができる=屈服を認める
⇔主体的にカケラを紡ぎ続ける=アンインストしない行為が奇跡を信じること

これもさっきの項目と関係する。要は、今まで基本的に選択肢のない物語を受動的に眺めるだけだったのが、勝利するために主体的にカケラ紡ぎをするという構造になっており、これが羽入自身の姿勢と連動しているわけである。ご丁寧に、「アンインストールするという選択もあります」という説明まで入れてあるのだが、要するにこれは、カケラ紡ぎという行為を「主体的に」選ばせることで、羽入とプレイヤーの共犯関係を成立せしめるための通過儀礼なのだろう(まあ祭囃しを購入したプレイヤーであるという時点でそのような演出は老婆心な気がしなくもないが、皆殺し編の反応を見てさすがに作者も慎重になっていたということか)。


以上プレイヤーを引き込む演出としてカケラ紡ぎを見てきたが、他にも二つの意図が含まれていると考えられる。一つは、単純に今までと違うゲームシステムにすることである。今までと違って人ならぬ羽入の視点なのだから、この変化はある意味当然だが、話を眺めているだけだと飽きるため、少しは頭を使うような構造にした、という部分もあるだろう。そして二つ目は、過去の真実を見せる必然性を担保することだ。目明し編などで断片的に触れられているとは言っても、結局悟史の事件さえも詳細が不明のままだったのは事実である。そこで最終話としてその説明が必要になるわけだが、例えば誰かが過去の事件について話すのを聞いているだけでは間違いなく間延びするし、断片的にならざるをえない(鷹野でさえ、現場監督の殺害現場でのやり取りなどは知る由もないわけだし)。前者については、話を断片化した上でカケラを紡ぐ順番を多少考えないといけない仕組みにして問題を解決したわけだが(上記のゲームシステムの話と繋がる)、後者に関しては、そのような断片的説明という縛りから自由な、つまり「神の視点」を持つ羽入の目で事件を再構成するという形で乗り越えているわけだ。


少し複雑になったかもしれないのでまとめよう。祭囃しのカケラ紡ぎには大きく言えば二つの意味がある。

1.ゲーム性の獲得⇒頭を多少使う=プレイヤーを退屈させない
プレイヤーはかなりの程度真相を把握している状態のため、これまでと同じような形式では退屈する可能性が高い(頭を使う必要がないため、読んでいるだけになる)。そこでゲームの形式を変えて多少頭を使わせつつ、さらに57年以前の事件の真相(=未知の情報)を見せていくという手法が採られたのだと考えられる。


2.主体性の獲得⇒共犯関係の成立、大団円への巻き込み
そもそもカケラ紡ぎをするかどうかを問う形でプレイヤーは主体的に選択することを迫られているのだが、それは形式的な印象しか与えないと思われる(「カケラ紡ぎをする=皆殺し編の結末に満足しない=奇跡を信じる」という図式が自動的に成立するようにできてはいるが…)。だが、実際に並べられたカケラをプレイヤーが選び取って物語を再構成していくという作業を経ることによって、それほど意識せずとも、プレイヤー自身は物語の構築と奇跡の成就に主体的に関わっているのだという感覚を植えつけられることとなる(これは、ただ真相を開陳しただけの皆殺し編に対する反発を考慮してのものだと推測される)。これによって、終盤の戦いや大団円が単なる「風景」で終わってしまうことをある程度は防ぐ効果があるだろう。

もっと簡単に言えば、ゲーム性の獲得とプレイヤーの巻き込みという目的でカケラ紡ぎというシステムが採用されたと考えられるのである。以上。


(最後に)
このような形で神のレベルから物語を再構成して最高のエンディングを模索するという特異な構造であるがゆえに、祭囃し編は最終話としてきちんと成立しえているのだけれども、逆に言えば、そういった構造ゆえにこれ以降新しい話をこしらえても蛇足になってしまうという印象が拭えない(たとえ梨花がそれを推奨するかのような言動をとっていたとしても、だ)。PS2版の盥回し、憑落し、澪尽しはまだしも、が全くのところいただけないのはそういう理由もある。ちなみに、澪尽し編をプレイし終えた人は「必然性なき■■の救い」の記事も参照。

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