「ウーマンコミュニケーション」完走の感想

2024-06-23 16:46:23 | ゲームレビュー

 

 

 

「ウーマンコミュニケーション」コンプリートいたしました。前に記事を書いたのが3/16なので、3か月強というところだが、まあ最近の自分からしたら頑張った方やと思いマス(何の言い訳だw)

 

完走の感想を簡単に書いておくと、まず基本的にはアホゲーである。ただ、普通ではない単語や文の切り方で下ネタを発見せねばならず、ステージによっては同時に3~5つ文が出てくることもあるので、良い脳(煩悩?)トレになる。

 

難易度が3段階に調整できるのも絶妙で、アブノーマルはもちろんノーマルが難しい人でも、チェリーなら始めから周辺の文字が赤くなっているため、それほど苦労せずにコンプリートまでもっていくことができるだろう(アブノーマルは北斗神拳の世界w)。

 

これは単純にゲームバランスという側面もあるが、おそらく製作者側がエンディングの一部しか見れず消化不良になるのは望んでいなかったからではないか、とも思える。

 

最初こそこのアホなミッションをこなした先に何があるのかという感じだが、話はメタい内容になってきて、最終的には孤独と承認というテーマになっていく。

 

なるほど、ウーマンコミュニケーションは…さっちんゲーだったんだ!な、なんだってー!!という訳だが、その意味ではドキドキ文芸部がモニカゲーだったのと似ている。

 

ただ、後者はそもそもキャラクターとして上手くコントロール欲を隠した独裁者であったがゆえに、愛を囁いたとしてもそれは単なる独占欲だし、それを彼女が諦めたとしても、解放の感覚が強いのであまりカタルシスがない、というのが自分の正直な感想だった。ただし、ドキドキ文芸部は見ていないルートもあるため、それらを総合するとまた違った印象を受けるのかもしれないし、また実際にいる人間類型の病的側面をカリカチュアした、という意味では興味深い描写ではあった(後述)。

 

で、ウーマンコミュニケーションに話を戻すと、その点で言ノ葉さちは、随所に抜けたところが見られたこともあって、孤独の吐露にある程度は同情心を持ちやすい演出になっている。そしてそれゆえに、彼女が最終的に主人公を解放するのは、利他的行為という印象を受ける部分である。

 

この点自分が思い出したのは、傑作「沙耶の唄」である。以前も説明したように、作者の意図したものはウェルメイドなコズミックホラーであり、ゆえに多くの人に純愛作品と捉えられていたことに困惑していたインタビュー記事は大変興味深いものであった。

 

ただ、同作がなぜ純愛モノと捉えられたかについては、最初に見れるエンディング(エンディング1)での沙耶の振る舞いが極めて大きな役割を果たしたと思われる。というのも、彼女をあくまで異形として受け手に切断処理させるなら、「生存本能=利己」というわかりやすい図式に則り、彼女の態度を豹変させるべきだった(「沙耶の唄:エンディングの『失敗』」を参照)。しかし実際には、彼女は主人公の選択を受け入れる、つまり利他的行為を示したのだった(「沙耶の唄:エンディングの『失敗』2改」を参照)。

 

これを一言で表すなら「異形に宿る人間性」となるが、このような描写は、沙耶の唄が影響を受けた『火の鳥』未来編、『デスノート』のレム(むしろミサの身を案じて夜神と対立する)、最近リメイクされた『ダイの大冒険』のクロコダイルなどなど、枚挙に暇がない。そしてこういった表現は、「人間ー異形」、「敵ー味方」という構図に収まらないため、超越的な印象を受け手に与えやすい(まあ「隣人愛」なんてのはその典型例か。ちなみに前述のデスノートで言うと、人間である夜神の方が自己利益しか考えず、悪魔=異形であるレムの方が利害損得を超えてミサ=他者のために行動するという表現は、コントラストとして極めて興味深い)。

 

ともあれ、こうしてエンディング1はウェルメイドな(ノイズの排除された・わかりやすい)ホラーを超えて、傑作となることへ大いに貢献した。もしそれがなかったら、主人公が沙耶の望まない選択肢を採っていたらどうなっていたのか?という残余が常に残り、あくまで沙耶の生存本能(孤独・生殖)を脅かさない上で彼は生きられたのではないか?という思いを受け手に抱かせ、その「純愛」にもなおホラー的側面を残すことになったのではないだろうか。

 

というわけで、言ノ葉さちの行動は、それまでの彼女の描き方もあって、孤独と承認欲求に基づいているにもかかわらず、主人公の立場に立った利他的行為との印象を受け手に抱かせやすいものだったのではないか。

 

私がここに強い興味を抱く理由は、「異形の人間性」というものが、「人間の動物性」や「人間の非人間性(!?)」と相まって、今後大きくクローズアップされてくるのではないかと考えるからだ。

 

これを端的に言えばAIの「進化」と人間の「劣化」という表現になるが、人間の多様性・複雑性が承認され拡大していく中で、共通前提はどんどん失われていき、「以心伝心」や「阿吽の呼吸」などという言葉がもはや妄言となっているのはもちろん、言語化してさえも意思疎通の難易度は日々上がり続けている(まあこの辺りはそういった傾向が表れやすいネット上の不毛なコメントのやり取りを見ていれば、思い半ばに過ぎるというものだが)。

 

その中において、生身の人間とのコミュニケーションはコストが高くなって実りも得難くなる時、急速な勢いで発達するAI(AGI)やそれに基づく製品が「人間とコミュニケートするよりもマシな存在」とみなす人間の割合が増えていくことは想像に難くない(当たり前だが、全員がいきなりゼロから百へと動くことはないので、あくまで漸進的な現象だ)。

 

その意味においては、ウーマンコミュニケーションで言えばシステムの人格的理解ということになるし(アレクサやシリをキャラクターのように扱うマインドを想起したい)、あるいはドキドキ文芸部で言えば、恋愛ADVのやや極端なキャラクター造形を明確に精神疾患と結びつけた点の新しさを指摘したが(ただし「CROSS♰CHANNEL」という先行作品はある)、これはキャラクターを強調する必要のあるゲームの宿痾という性質を超えて、そもそも今日発達障害とされる人の割合が増えつづけていることなども連想される。

 

もちろん、これは「おかしな人間が増えている」などという話をしたいのではない。そもそもそういう診断や社会的認知の広がりにより「発見」されている側面はあるだろう。ただ、前述のようにそもそも多様な価値観を持った人たちとコミュニケーションを取ることが求められる今日においては、その難易度が上がり続けている。それとともに、少し古い言い方をすれば、「キャラ的人間関係」に依拠しつつ、いかに出る杭とならないように振る舞うかに汲々としている若年層のメンタリティの話などを聞くと、20世紀末に東浩紀が『動物化するポストモダン』で「美少女ゲームの先見性」という趣旨の内容で述べたように、10年後、20年後の未来にドキドキ文芸部的な、あるいはCROSS♰CHANNEL的なコミュニケーションがそこかしこに現出したとしても、私は全く驚かないだろう(ちなみに今述べた話が、「絵画テロ、反逆の神話、加速主義」で書いたことに繋がっていく)。

 

というわけで、つらつら思ったことを自由に書いてみましたよと。まあ承認要求という意味では、その肥大化と暴走を扱った「Needy girl overdose」にも触れないわけにはいかないが、実はこちらの作品、ヤクブーツ摂取するのとかがあまりに気が進まず塩漬け状態になっていた( ̄▽ ̄;)

 

しかし今なら、ある程度ゲームの量もやりようになっているので、近いうちに再チャレンジしたいと思う。


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