日本について簡単に述べたので、今度は世界における例を出してみよう。ただ、世界のことだからと言って、「よその話」と考えないようにしてほしいと思う。最近ではよく認識されるようになってきているが、歴史とは自分の国だけのものではないし、またそれぞれの国や民族が(もちろん程度の差はあるが)独自の歴史理解をしているからだ。そのことを踏まえて、世界の例を読んでもらえればありがたい。
世界的には多くの宗教紛争、民族紛争があるわけだが、そこでは、あたかも最初から対立があったような物言いをすることで扇動を行っている場合が少なくない。宗教紛争については、例えばエルサレムを巡っての争いがあるが、歴史的に見れば、キリスト教、ユダヤ教、イスラームが共存していた時期のほうが、争っていた時期よりもずっと長かったのである(一次大戦後における領土分割のゴタゴタといった諸事情により今現在の状況が生まれている)。
また戦争状態にはない地域でも、今の民族と史料に表れる部族集団などを同定し、自分たちを権威付けする行為などが行われている(これが前回言った近代国家の枠組みや国民国家の思想と繋がる)。例えば中央アジアのウズベキスタン(首都タシケント)では、モンゴル帝国と戦ったホラズム・シャー朝最後のスルタン、ジャラール・アッディーン(13世紀初頭の人物)を民族的英雄に祭り上げるなどしているが、実際のところ、スルタンと現在のウズベク族にはほとんど繋がりなど無いと言ってよい。まずそもそも、民族上スルタンがどのような位置づけにいるかが史料からははっきりしない。おそらくはトルコ系だったろう、程度のことしかわからないのである(確信はないが、彼の母親はトルコ系有力部族カンクリの出身だったと記憶している)。またその後のこととして、モンゴル帝国(チャガタイ・ウルス)征服時におけるモンゴル系、トルコ系遊牧民などの流入があり、さらにティムールの時代には、例えばサマルカンドに多くの職人を中東(今で言うイラン以東)から連れてくるなどしているのだ(ちなみにティムールはウズベク最高の英雄と位置づけられている)。要するに、かなりの人種的・民族的混交が行われたわけである。そして次のシャイバーン朝(16世紀)の時代になって、ウズベク族が中央アジアに移動してくるのだが、このウズベク族は、学術的には「遊牧ウズベク族」と呼ばれるように現代のウズベクとの繋がりは薄い(詳しい理由は後述)。しかもこの「遊牧ウズベク族」は、地元のキプチャク族(トルコ系)などと混交が進んだモンゴル帝国のジュチ・ウルス(大雑把に言えば現在の東欧・西ロシア付近を勢力範囲としていた)の一支流なのである。そして何より重要なことは、現在の「ウズベク」の枠組みが、1921年の民族会議において便宜的に定められたものにすぎない、という事実である(これは現在の「ウイグル」などにも当てはまる。またこのような「民族の創生」については、ヨーロッパによるアフリカの領土分割の際の恣意的な線引きを想起してほしい。またそれが多くの民族・部族紛争を生み出していることも)。要するに、歴史的にウズベクと呼ばれてきた集団と、今の「ウズベク」はカテゴライズ上同一視できないものなである。
ここまで書いてくれば、現代のウズベク族とホラズム・シャー朝のスルタンが全く結びつかないことは明白だろう。だがこれに対して、「今住んでいる土地を守ろうとした」という地縁的な結びつきの意識があるのではないか?という指摘がなされるかもしれない。しかしそれならなぜ、13世紀の、つまり800年以上前の人間を引っ張りださなくてはならないのだろうか(それならまだ、名前としては繋がりがあるように聞こえる、例えば「遊牧ウズベク族」のシャイバーニー・ハーンでも事足りるのではないか)?
考えられるのは、「ウズベク」を少しでも古い民族として権威付けし、さらには支配の正当性を訴えるという意図である。ここでは、スルタンには「モンゴルという『異民族』と戦ったトルコ民族の英雄」という一種の「記号」が与えられている。言い換えれば、「異民族」に対しトルコ系部族・民族を結集して戦いを挑んだ者、つまり外敵に対しトルコ民族を統合して立ち向かった者と位置づけているのである。さらに、彼の血を引く者が我々ウズベク族だというメッセージを出すことによって、自分たちが(現代において)トルコ民族の盟主としてふるまう正当性を暗に主張しているのではないか、と推測される。(赤坂恒明「十四世紀中葉~十六世紀初めにおけるウズベク ─ イスラーム化後のジュチ・ウルスの総称 ─ 」『史學雜誌』 第百九編 第三号,2000.3,pp.1-39.、同「[モンゴルに敗れし者たち①]ホラズム=シャー朝 今なお生き続ける民族の「英雄」」『月刊しにか』通巻一四一号, 大修館書店, 2001.11, pp.28-29.などを参照)
このように見てくれば、歴史に関する言説が、「民族」といった要素と絡み合いながら、いかに政治性をもって語られているか、またそれがいかに恣意的な内容であるかが理解されるだろう。上に挙げたウズベキスタンは、トルクメニスタンとともに、学会の注目を集めるほど民族主義が極端な地域であるが、そういった傾向は大なり小なりどこの国にも共通するものだ。そして最も重要なのは、
そういった言説で社会や政治が動いていくという現実
なのである。しかしそれゆえに、歴史学は単なる実態の追求という学術的な意味合いのみならず、社会や政治に対して影響力を持つという極めて社会的な意義が存在するのだと言えよう(もちろん、それが一種の「お墨付き」になる場合などもあり、必ずしもプラスの側面ばかりではないことに注意しなければならない)。また研究者の側も、研究が社会や政治に影響を与えるものばかりでないのは無論のことにしても、そういった意義を忘れてはならないように思う。
世界的には多くの宗教紛争、民族紛争があるわけだが、そこでは、あたかも最初から対立があったような物言いをすることで扇動を行っている場合が少なくない。宗教紛争については、例えばエルサレムを巡っての争いがあるが、歴史的に見れば、キリスト教、ユダヤ教、イスラームが共存していた時期のほうが、争っていた時期よりもずっと長かったのである(一次大戦後における領土分割のゴタゴタといった諸事情により今現在の状況が生まれている)。
また戦争状態にはない地域でも、今の民族と史料に表れる部族集団などを同定し、自分たちを権威付けする行為などが行われている(これが前回言った近代国家の枠組みや国民国家の思想と繋がる)。例えば中央アジアのウズベキスタン(首都タシケント)では、モンゴル帝国と戦ったホラズム・シャー朝最後のスルタン、ジャラール・アッディーン(13世紀初頭の人物)を民族的英雄に祭り上げるなどしているが、実際のところ、スルタンと現在のウズベク族にはほとんど繋がりなど無いと言ってよい。まずそもそも、民族上スルタンがどのような位置づけにいるかが史料からははっきりしない。おそらくはトルコ系だったろう、程度のことしかわからないのである(確信はないが、彼の母親はトルコ系有力部族カンクリの出身だったと記憶している)。またその後のこととして、モンゴル帝国(チャガタイ・ウルス)征服時におけるモンゴル系、トルコ系遊牧民などの流入があり、さらにティムールの時代には、例えばサマルカンドに多くの職人を中東(今で言うイラン以東)から連れてくるなどしているのだ(ちなみにティムールはウズベク最高の英雄と位置づけられている)。要するに、かなりの人種的・民族的混交が行われたわけである。そして次のシャイバーン朝(16世紀)の時代になって、ウズベク族が中央アジアに移動してくるのだが、このウズベク族は、学術的には「遊牧ウズベク族」と呼ばれるように現代のウズベクとの繋がりは薄い(詳しい理由は後述)。しかもこの「遊牧ウズベク族」は、地元のキプチャク族(トルコ系)などと混交が進んだモンゴル帝国のジュチ・ウルス(大雑把に言えば現在の東欧・西ロシア付近を勢力範囲としていた)の一支流なのである。そして何より重要なことは、現在の「ウズベク」の枠組みが、1921年の民族会議において便宜的に定められたものにすぎない、という事実である(これは現在の「ウイグル」などにも当てはまる。またこのような「民族の創生」については、ヨーロッパによるアフリカの領土分割の際の恣意的な線引きを想起してほしい。またそれが多くの民族・部族紛争を生み出していることも)。要するに、歴史的にウズベクと呼ばれてきた集団と、今の「ウズベク」はカテゴライズ上同一視できないものなである。
ここまで書いてくれば、現代のウズベク族とホラズム・シャー朝のスルタンが全く結びつかないことは明白だろう。だがこれに対して、「今住んでいる土地を守ろうとした」という地縁的な結びつきの意識があるのではないか?という指摘がなされるかもしれない。しかしそれならなぜ、13世紀の、つまり800年以上前の人間を引っ張りださなくてはならないのだろうか(それならまだ、名前としては繋がりがあるように聞こえる、例えば「遊牧ウズベク族」のシャイバーニー・ハーンでも事足りるのではないか)?
考えられるのは、「ウズベク」を少しでも古い民族として権威付けし、さらには支配の正当性を訴えるという意図である。ここでは、スルタンには「モンゴルという『異民族』と戦ったトルコ民族の英雄」という一種の「記号」が与えられている。言い換えれば、「異民族」に対しトルコ系部族・民族を結集して戦いを挑んだ者、つまり外敵に対しトルコ民族を統合して立ち向かった者と位置づけているのである。さらに、彼の血を引く者が我々ウズベク族だというメッセージを出すことによって、自分たちが(現代において)トルコ民族の盟主としてふるまう正当性を暗に主張しているのではないか、と推測される。(赤坂恒明「十四世紀中葉~十六世紀初めにおけるウズベク ─ イスラーム化後のジュチ・ウルスの総称 ─ 」『史學雜誌』 第百九編 第三号,2000.3,pp.1-39.、同「[モンゴルに敗れし者たち①]ホラズム=シャー朝 今なお生き続ける民族の「英雄」」『月刊しにか』通巻一四一号, 大修館書店, 2001.11, pp.28-29.などを参照)
このように見てくれば、歴史に関する言説が、「民族」といった要素と絡み合いながら、いかに政治性をもって語られているか、またそれがいかに恣意的な内容であるかが理解されるだろう。上に挙げたウズベキスタンは、トルクメニスタンとともに、学会の注目を集めるほど民族主義が極端な地域であるが、そういった傾向は大なり小なりどこの国にも共通するものだ。そして最も重要なのは、
そういった言説で社会や政治が動いていくという現実
なのである。しかしそれゆえに、歴史学は単なる実態の追求という学術的な意味合いのみならず、社会や政治に対して影響力を持つという極めて社会的な意義が存在するのだと言えよう(もちろん、それが一種の「お墨付き」になる場合などもあり、必ずしもプラスの側面ばかりではないことに注意しなければならない)。また研究者の側も、研究が社会や政治に影響を与えるものばかりでないのは無論のことにしても、そういった意義を忘れてはならないように思う。
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