「二重の極みアーーーッ!!」ってだいぶ懐かしいネットミームだが、よもやその数か国版を使って言語を習得せんとする猛者が現れるとは・・・そのクレイジーさがいっぱいちゅき(はぁと)。
てか、空耳って「空耳アワー」とか格闘ゲームの技名とかインパクトに残って未だに覚えてたりするから、言葉を勉強する上で結構ありなアプローチだと思うんよねえ(外国のドラマや歌に興味を持ち、そこから言語を学び始めるのなんかも同列に並べてええんやないかと)。
もちろんこういうのだけで「完成」まで持っていくのは大変というか困難だけど、モチベもないのに一律で興味が持てないものを頭に詰め込もうとしても、大体の場合は作業・修行・苦行でございまして、入口はゲラゲラ笑いながらぐらいでちょうどええんやないかな。
その意味では、「だいじろー」や「Atsueigo」と英語の多様性、「儒烏風亭らでん」と西欧美術史、ゆっくり解説の「五回目は正直」と中世西欧史など、今はいくらでも興味を喚起して橋渡しの役割を果たしてくれるものが数多くある(もうちょっと「硬い」感じのになれば、最近買収とサービス存続が決定したらしい「ただよび」、あるいは今回のように言語関係なら「ゆる言語ラジオ」や「minerva scientia」、あるいは歴史や美術に関する解説の「春木で呉座います」などこちらも様々挙げることができる)。
元々興味を持っている人へお勧めするには最初から重厚なものを(ゴールとして)提示するのもありだけど、今述べたような知識やその橋渡ししてくれる存在を魅力的に伝え、興味のフックをどれだけ増やせるかが重要なんじゃないんかね。まあ多少大げさな言い方をすれば、学校で教わる教育は、枠の縛りが強いのもあって「宣教師」ばかりになりがちで、「ミューズ」はほぼ壊滅ってところかね。逆ならまだいいんだが。え、学校なんてそんな場所だって?HAHAHAHAHA、なるほどそりゃあ不登校児も増える訳だわな(・∀・)
どっか遠い世界の抽象的な悪とかがクソどうでもいいように、「自分に何の関りがあるのかわからない知識」なんて基本的にどーでもええんよ。例えば俺は基本的に日本の地理なんぞクソどうでもいいと思っていたため、学生の時は県の配置なんぞほぼ覚えてなくて、それが今頭に入っているのは実際に全国を旅行したためである。そこに住むわけでも行くわけでもないのに、群馬や奈良の場所を把握したからって、一体俺に何の関係があんねん?て話なのだ(全国地図が登場してナショナリズムが勃興する以前の農民て、きっと似たような感想を持ってたんだろうなw)。
その一方で、地方行政など実際には生活にかなり関係しているはずの多くの事柄をあまりに知らなすぎる、という極めてアンバランスな理解の体系の中に生きているのである(「由らしむべし、知らしむべからず」の弊害、と言うべきか。そら「ファスト教養」を志向する人間は増えて当然だわな。あまりに当然すぎて、そのことに驚く方がむしろ驚きなんだワ)。
多くの学生はそれらを学業のためという理由で強制的に詰め込んできたわけだけど、大学や社会人でそういう強制力が無くなったら学ばなくなるって当たり前のことだとしか言いようがない。そういう人たちが学び損ねたのは、あるいは他人が教えてくれなかったのは、「学ぶ動機づけ」というおよそ最も根源的なことなのだから。
世界の豊かさに対して開かれたマインドを持つためには、その豊かさを知るのを楽しいと思う経験が重要で(ストレス耐性が強い人もいるんで必須とまでは言わんが)、義務としてあれもこれもと教えて上手く枠にはまるだけの「小役人みたいな人間」を作るのが目的なんでなければ、要するに「おもしろいと思うものが増えるような構造を作ればいい」のである。
というわけで、ワイはノーパンスタイリストの森で修行してきます。
アテイブレイビー、オブリガード(・∀・)
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