それじゃあFateレビュー再掲第二弾と。時期的にはこれが一番古いんだが、前回の「キャラ短評」と次にくるシナリオ評価の記事のちょうど橋渡しをする内容なので、このタイミングにて掲載しますよと(余談だが、原文に「二年以上前」とあり、またこの作品をプレイしたのは2004年なので、2006年に書かれたものと推測される)。ちなみに俺は沸点が低い&めんどくさがりなので、どーでもよくなって対象を見限るのが早いのだが、その点割合直截に怒りが表明されている珍しい記事かもしれないwじゃあなぜ投げなかったのかって言うと、原文中にもあるように、そこに演出的な必然性があると思ったから。まあある種、「月姫」で構築された信頼が背景にあった、とも言えるね(ちなみにこれは、かつて行われた人気投票での作者コメント「自分はまだまだこいつ=士郎とは冷戦状態」、「余談ではありますが、月姫の主人公とは絶対に相性悪いです」より確信犯的なキャラ造形であることが裏付けられる)。
こういった自身の反応・分析と、「君が望む永遠」という作品の主人公に関する「ヘタレ・埋没・凡庸」の記事を比較してみるのもおもしろいかもしれない、と他人ごとみたいに言ってみるテストw
[原文]
Fateについてあまり触れてこなかったので、主人公の位置づけについて簡単に書いてみようと思う。
二年以上前、プレイ当時の俺は士郎があまりにムカツくため、二回ほど本気でディスプレイを殴りそうになった。
「こういう正義とか言ってる輩が往々にして一番有害なんだよ!」とか思いながら。実際士郎は非常に独善的に見えたし、そのくせ慎二の横暴を許すような態度に憤慨したものだった(その他いろいろ)。しかし二周目が終わった時点で、彼の成長こそが重要なテーマであったことに気づく。つまり、士郎がもどかしさや憤りという感情を喚起させるようなキャラなのはある意味で必然的なことだったと言える。月姫の志貴が受け入れやすいキャラだったのに、なぜわざわざこんなヤツを主人公にしたのかと思っていたが、ここでなるほどと納得。
考えてみると、凛とした態度のセイバー、キレ者の遠坂、達観したようなアーチャー、そして飄々とした快男児のランサーといった、プレイヤーが受け入れやすい(つまり「感情移入」できると感じる)キャラが士郎の周りに配置されている。はじめは士郎のキャラが肌に合わないこともあり、そちらに目が行っていたけれど、「士郎の成長」というテーマを理解したとき、彼らの役割もまたより正確に把握できるようになったと思う。最初は、士郎が受け入れにくいキャラなため、構図的には一種の緩衝材として彼らのキャラクターがあると考えていた。しかしそんな彼らのキャラには、士郎を鍛え、導いていく役割というより積極的な意味合いが存在していたのである。
一周目は、あたかも士郎の論理を肯定するようなエンディングだった(セイバーは彼の考え方に同調し、それがエンディングの内容と直結しているから)。そこで製作者は士郎の態度を肯定しているのかと考えたり、あるいはそれを否定したりしながらプレイしたが、二周目の内容で見事に反転されたことでようやく意図がわかり、感心したものだった(士郎は相変わらず嫌いだったけどw)。およそプレイヤーが受け入れやすいであろうキャラと、主人公でありながら多くの反発を生み出すであろうキャラの対決とは、なかなか味なことをするものだ。その伏線もむちゃくちゃ効いていたから、とんでもない傑作に出会ったと感じた記憶がある。まあ結局は三周目でその流れを上手い具合に生かせず尻切れトンボになってしまったように思うのだけれど、それについては機会があれば述べたい(過去ログ「傑作PCゲームの批判的寸評」でも簡単に書いている)。
またそうはいっても、主人公を含め様々なキャラの生き様は、物語全体のテーマと絡みつつしっかりとした構図の中に位置づけられ、Fateの主題としてさんぜんと輝きを放っていると思う。
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