吉永みち子『性同一性障害』を読んで

2007-07-19 02:07:27 | 本関係
本書では、初の合法的な性転換手術の場面がまず描かれ、性転換手術がタブーと認識される契機を作ったブルーボーイ事件、医療関係者の性的問題に対する軽視(※)などに触れつつそこに到るまでの契機が述べられている。著者は性転換手術(あるいは性転換そのもの)への反対意見などにもしっかり論及しているが、この両論併記は読書にまず問題意識を持ってもらおうという著者の姿勢の表れであり、これこそ本書の最も評価されるべき点であると思う(かつて記者をしていたという職業柄という部分もあるだろうが)。


この性同一性障害の問題について述べるときに、「人道的に認めるべき」だとか、あるいは「選択の自由」「ジェンダーフリー」といった言い方で性同一性障害に苦しむ人々を(例えば)「かわいそうな人たち」「同情すべき人たち」として記すことは簡単だしわかりやすい。しかしそんな書き方でいいのだろうか?おそらくは、(本書でも出てきたような)「お上」が認めたことなので受け入れるが身近にそういう人がいるのはお断り、という「総論OK各論NG」の人を大量生産するだけではないか?少なくとも、問題が解決する方向には行かないだろう。であれば、まず読者に自分で考えてもらう必要がある。そして性同一性障害に関わる様々な問題に興味を持ってもらい、性というものが絶対的な基準ではなく揺らぎうるのだということに気付いてもらわなくてはならないのだ。本書の両論併記は、そういう状況に的確に対応したものであると言えるだろう。


なお、私は自分が(相当に)狭量な人間であることを知っている。この世に不快なもの、我慢ならないものはごまんとある(※2)。性の問題に関しては、例えば前にも書いたが同性愛は気持ち悪いと思うと思うし、もし半陰陽の人を現実に見たら気持ち悪いと感じる可能性はある(もっともこれは性器部分の話で、普通にしてたら何とも思わないかもしれないが…)。その感覚に嘘をついて、口先で許容したフリをするのは簡単だ。しかしそれは、臭いものに蓋をしただけに過ぎない。私にできるのは色々な知識を得て、自分の(不快さといった)感覚の源泉と対峙することである。目を反らせばその機会は永遠に失われる。本書を読んでいて性同一性障害の人たちのメンタリティはどうしてもよくわからなかったが、それは至極当たり前のことだ。その事実から目をそらして溝が無いフリをするのではなく、溝を観察し、あわよくば埋めていく作業こそが重要なのではないだろうか。



性転換に対する取り組みが遅れたのは、性的問題は医療機関が専門的に取り組むべきものではないという考えのみならず、心理的な性と身体的な性の齟齬に苦しむ人々の声に対して無頓着だったからではないかと推測される。カウンセリングなどに対する取り組みの遅れと性転換に関する取り組みの遅れは半ば地続きだと思うのだがどうだろうか。なおこれに関しては、半陰陽に対する医療機関の扱いも合わせて考える必要がある。


※2
性に対する不快の問題を考えるとき、二次元なら許容できるものが現実では許容できないといった現象も重要である。それは(基本的には)二次元が生々しさを減退させた表現方式であるからだと思われるが、機会があればこの問題についても書いてみたい。若干問題とずれるが、この記事も参照のこと。

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