日本人と「宗教的帰属意識」2:儀礼と帰属意識の関係

2005-10-08 04:35:46 | 宗教分析
 一方日本人の宗教意識はどうだろうか。日本人が、歴史的に宗教的混交状態と慣れ親しんできたことは数々の実例が示すとおりである。そしてそれは、明治政府の神仏分離や廃仏毀釈といった政策をもってしても完全に破壊されることはなく現在に到っている。

 そういった現代に残る「宗教的要素」として、結婚式、初詣、葬式、地鎮祭といった例が思い浮かぶ。これらが、神道や仏教、あるいはキリスト教の儀式に拠ったものであることはよく知られている。こういった「宗教的要素」に我々の日常が彩られているにもかかわらず、それらが一向に我々の宗教意識に訴えかけてこないのはなぜだろうか?
 
多くの人が、これに関する答えとして、「それらが宗教的なものではなく『慣習』として認識されているからだ」と答えるかもしれない。私自身も、トルコ旅行の際、コンヤの料理屋で話したウェイター(といっても単なるウェイターではない。英語が非常に堪能で、日本から講演にきた先生の英語の原稿をチェックしたりなどしていた)に自分の宗教を聞かれた時、私は少し考えて「無宗教だ」と答えた。それに対して相手は「日本人はみんな無宗教だと言うがそれはなぜだ?」と今にして思えば至極当然な疑問を投げかけてきたのである。私は、それまで「なぜ」無宗教なのか真剣に考えたことがなかった。

結局私は、「確かに我々は宗教的行為(違う言い方をしたかもしれない)を毎日行っているが、我々にとって、それらの行為は宗教というよりは慣習なのだ」という何とも「洗脳された」(これについては後述)答えを返すのが精一杯だった。そして、その説明に首を傾げるウェイターに向かって、無宗教が多数派という状況がどういった歴史的経緯で生じたのか、ということを少ない知識を総動員して「神仏分離・廃仏毀釈による仏教の衰退」「衰退した仏教と神道の混交」(説明した時、たしかMixという単語を使ったと思う。今にしてみれば、Chaotic Situationといった単語を使えばよりわかりやすかったかもしれない)という観点から説明した。それらは、はからずも本質の一端に触れていた部分もあるのだが、とにかくこのやり取りによって、私は「日本人は『なぜ』無宗教なのか」ということに強い興味を抱くことになったのであった。
 
話を元に戻そう。そのような一般的認識と、トルコで私のした説明が、「慣習」という考えにおいて同じ認識に基づいていることは明白である。しかしそこから、どのようにして(あるいはなぜ)そういった「宗教的要素」・「宗教的行為」が「慣習」と認識されるに到ったのか、という疑問にはなかなか行き着かないようだ。

先ほど、背信的行為を行ってもムスリムであるという帰属意識を失わない、という実例を述べたが、つまりは「宗教的行為・義務」を怠ったり、戒律を破ったりするということが必ずしも宗教的帰属意識を根本から覆さない、ということである。言い換えれば、様々な戒律や儀礼があっても、それを部分的に守ったり、それらを犯したり、(その効果を)信じなかったりすることは、人にもよるが日常的なことである(むしろ、あらゆる戒律や儀礼を遵守している人間は皆無と言ってよい)。

何を今さら、と言われるかもしれない。結局世界において様々な宗教・信仰形態があることの一端でしかなく、自明の理ではないか、と。しかし考えてみてほしい。もしそうであるならば、「葬式仏教」をやっている人間が仏教徒にならないのは何故か。初詣や地鎮祭を行う人間が神道信仰者とならないのは何故か。前述のように、部分的に儀式を行うことも宗教的帰属意識と十二分に結びつくし、いくつかの宗教の儀礼・戒律が混交して行われることなど歴史的に日常茶飯事のことなのだ。

つまり、現在の日本の儀礼主体的・混交的状況は、日本人が「無宗教」であることの説明にはならないのである。(続く)
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