示現流ねー、そういや『修羅の刻』で初太刀を避けられたらいきなり降参する剣士が出てきて「何じゃそりゃ!?」と思った記憶があるが、あれから長い時を経てまた目にするとは思わなんだ(ちなみに動画で解説されているのは示現流から派生した薬丸自顕流で、初太刀を外されたら・・・というのはこちらの流派のことらしい)。
門外不出で薩摩の教育とも深く結びついていると解説されているが、この「合理的脳筋」(笑)みたいスタイルって、戦国時代でも木崎原の戦い(勝利したけど自軍の85%死亡)とか、「釣り野伏せ」と呼ばれる(待ち伏せ戦法と言えば聞こえはいいが実際には)決死の偽装撤退にも見られるわけで、長い時間をかけて作り上げられたものだと思うと感慨深い(てか教育システムも含めて、「日本のスパルタ」と言っていいw)。まあでもこういう豪胆さこそ、幕末で中心的役割を担えた要因の一つなのであろう。
話を剣術の方に戻すと、構えやその意味についての解説もおもしろい。自分が中学校で剣道やっていた時は、「八相や脇構えは古い時代の名残で、下段は防御の構え」くらいのことは教わっていたが、なるほど森や山の中の(長時間)移動って考えると、下段の構えはむしろ必然的なものとすら思えるわ。お辞儀の差異に右手(利き手)をもう片方の手で押さえて行うというのもそうだが(これは握手も類似の発想)、所作にはその時の合理的思考が反映されているのだなあと興味深く感じた(逆に言えば、それがどのような背景の元になされているかを知ると、状況が変化したらそれを墨守することが特段正しいわけでもないこともまた理解される)。
で、この二つの記事に結びつくが、中学2年の時に(熊本から車で北上したんで佐賀か福岡だったと思うが)丸目蔵人杯というものがあり、初めてタイ捨流なるものを知った。そこで型が披露されたのだが、「エモン切りの構え」という太刀を左右斜めに振るという当時の自分としては余りにトリッキーな構えと(これも当時としてはまあ意味があったのだろう)、体術で喉突きが出てきて(笑っていいのかわからないが、つい笑ってしまうという類の)笑いが周囲からも漏れていたことはよく覚えているwまさかあの時の流派が広がって示現流とかにも影響を与えていたとは驚きである。
以前は剣道の試合をたまに見てたりしたが、今回の動画で色々なものを思い出したので、これを機会に色々と勉強してみたいもんである・・・と達成できなそうな目標(苦笑)を立てつつこの稿を終えることにしたい。
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