「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」 (オットー=フォン=ビスマルク)
私は昨日の記事で、「短絡的な自己責任論の大合唱は、畸形的ミーイズムの表象である」と書いた。その次に社会的思考が欠落する一要因について記そうと予定していたが、「『自分の苦労を後背にも味わせたい』という謎の心理」という記事が非常に興味深いものであったので先に紹介しておきたい。
大して長くはないので詳細は記事を読んでいただきたいが、これを読んで私が思ったのは、要するに問題が生じた時、問題の構造を分析して今後の解決策を考えるのではなく、それを「苦労」として抽象的に捉えているから、それを他の人も背負うべきであると思い込んでしまうのではないだろうか、ということだ。
この思考様式の異常さは、疫病で考えてみればわかる。たとえば、「かつて結核という病で人々が苦しんだのだから、ペニシリンなど使わずに現代の我々も苦しみながら治療に励むべきだ」などという意見があったら、おそらく人は一顧だにする価値なしとして一蹴するだろう。しかしながら、この結核が「長時間労働」・「過酷な環境下でのスポーツ」などに置き換わると、途端に昔もあったのだから今もあって何が悪いとばかりにその問題点をよく考えることもなく発言する者が後を絶たないのである(ちなみに、先の引用記事では無痛分娩が例に出されているが、こういう場合に「無痛分娩にも問題がある」という意見を言ってあたかも論破できたかのように考える人がいるが、それは100%の安全などという妄想に依拠した行動様式であり、合理的・戦略的思考とはbetterな選択肢を模索するものである)。
この見方が正しければ、まさに丸山真男の言う「作為の契機の不在」、すなわちシステムを人為的なものとして捉えることのできない日本人の戦略的思考の欠落とも関連しているであろう。このような性質は、「今さらやめられない」という「空気」の支配、そして暗黙の了解や阿吽の呼吸という妄想に基づいた暗黙知の跳梁跋扈と相まって、問題が生じてもなかなか変えられない、問題が先送りされる、という結果となって日本の「失われた20年」を生み出したと言えるのではないだろうか(ちなみにこういう事情で、上手くいっている時はいいが、問題が生じるとリカバリーがきかずにズルズルと状況を悪化させていった先の大戦と全く同じである。一体あの大戦は教訓として共有されているのだろうか?たとえば軍国主義を批判していればそれで問題が解消されるなどというのは、全くお門違いの妄想に過ぎない)。
己が経験した問題を「苦労」と置き換えることで解消不能なものにしてしまい、それを他者に押し付けて疑わないのは、問題の解決という社会的に価値のある行動を妨害し、もって(出さなくてもよい)被害者を生み出し続ける構造の片棒を担いでいる点で有害、否その社会的悪影響の大きさを踏まえれば、「国賊的」・「売国奴的」(という自分の嫌いな言葉を、皮肉を込めてあえて使わせてもらうが)とさえ呼んでいいのではないかと思う。
なお、このような「自分も我慢した(している)んだからお前も我慢しろ」という負の斥力は、少し違う表れ方をすると災害時の自粛ムード(というかその強要)などとなる。これについてもはっきり言うが、全く無意味である(それはたとえば、現場作業員が炎天下で働いているから、監督官も日陰ではなく日向で見守るべきだ、というのと同じだ)。災害の現場で必死に対応に追われている人にとって、基本的に他でバラエティがやっているかどうとかはどうでもいい。現場での人手や足りない物資が手元に届くことこそが問題であり、迂遠な精神論は二の次である(もちろん、デマの拡散などは論外だが)。
さらに言えば、有名人の被災地への応援だったり寄付だったりを「売名行為」などとして攻撃するのは無益を通り越して有害である。はっきり言って、それが売名だろうと何だろうと別にいいのだ。被災地にとってプラスになるかどうかが重要なのだから。そんなことは一歩立ち止まって考えればわかることなのだが、合理的・戦略的思考のできない人間は、その時の感情的な反発を体のいい言葉で正当化して攻撃し、結果として被災地支援の足を引っ張る(なお、当たり前のことだが、現場のためにならない支援やボランティアなどというのも、同様の理由で無意味である。自慰行為は自己完結してどうぞ)。言い換えればそういう連中は、己の感情的反発を表象することが社会的にどのような影響を生み出すかも考えない幼稚なミーイズムによって、今起きている社会問題の解決を停滞させているのである。
以上繰り返すが、社会的思考の欠落は、「売国奴」・「国賊」の一里塚である。それでは改めて、次の記事ではその背景について考えていきたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます