『貧困を救えない国 日本』:データ主義、社会的包摂、自己責任論

2019-11-07 11:37:47 | 本関係

『AI原論』の毒書会において、先ごろの台風と大雨の被害に関する話が出た。私は『災害ユートピア』が成立するのにもリベラルナショナリズムのような土台が必要であることを提起し、相方からはホームレスの受け入れ拒否に関して「税金を払っていないのだから当然である=死ね」と公共空間であるネットに堂々と書ける心性に戦慄したという意見が出た(受け入れで具体的な問題が生じることは理解するが、そもそもそのような事態を想定した設備設計するなど対策していなかった公的機関を批判すべきじゃないのかい?という話)。

 

もちろん、彼らに対し、何かを指摘しようと思えばいくらでもできる。たとえば武蔵小杉や二子玉川であれば、住む場所に関して事前の下調べをどれだけ十全に行ったのか?周りの風潮や不動産者の口車に乗せられてはいなかったか?それをせずに困難を抱えたのならば、それは自己責任である云々・・・という具合に。

 

しかし、そう書いている中には首都圏に住んでいる人も少なくないだろうが、首都直下型地震に対して何の備えをしているのだろうか?どれだけ情報を集め、それに踏まえどのような準備を行っているのか?食糧備蓄は?交通インフラが崩壊した時の対応は?否そもそも、そのリスクが言われているのだから首都圏に居住しているのは是か非か・・・

 

要するに。
被災者とそうでない人々の交換可能性を、一体どれだけ意識しているのか?基本的に私は人間に対する期待値が低いので、「被災者に対しては惻隠の情が当然のように出てくるはずだ」などという発想をしない。とはいえ、具体的な助けの手を差し伸べないのはもちろんのこと、労いの言葉どころか石つぶてを放つ己を疑いもしないその心性に対して瞠目せずにはいられない。なぜならそこには、徹底して「明日は我が身」の感覚が欠落しており、また根底に「自助努力で何とかできるものである」という信仰にも似た思い込みが深く根付いていると感ぜられるからだ。

 

自助努力!
なるほど素晴らしい言葉だ。しかし、今回では長野の台風被害、少し前では北海道の豪雨による被害など、これまででは予測ができなかった(少なくとも難しかった)災害が見られるようになっている(我が故郷の熊本地震も同様)。そういったものに対して、一体どのようにして「合理的に判断」するのだろうか?長いスパンで歴史・データを見ていくことである程度の予測は立つし、それに伴う対策も立てていくべきではあるが、問題の解決をこそ目的として議論するのであれば、むしろ早くからの(災害などの知識・対策を含めた)教育、公的機関の情報公開とアクセスの簡便化などをこそ焦点化すべきであって、自己責任で片づけられるものでは到底ない(そもそも、備えをしていなかった・備えが甘かった人たちへの支援金も税金から出るわけで、そのような人たちの数を減らすことは回りまわって私達の生活にも関係してくるのだから)。昨今の予測不可能な数々の災害は、それを私たちに改めて明示しているのであるが、その教訓を生かし共に対策をしていくという共同体意識・同朋意識(という言葉をわざと使ってみる)がなければ、今後衰亡が見込まれる我が国において、奈落の底に落ちる人間の数はますます増えていくことだろう。

 

 

とまあ長々述べてまいりましたが。
ここで書いた交換可能性の意識は、貧困や社会構造の話にも繋がるわけです。で、それを扱ったのが『貧困を救えない国 日本』。これは主に貧困問題を専門とし、公的機関で政策提言にも関わった経験の豊富な阿部彩と、貧困の現場を長年取材し、その中で自身も脳機能障がいを負って福祉サービスなどを利用してきた経験のある鈴木大介の対談から成っている。そのように書けば、「貧困はかわいそう。何とかして助けてあげたいね」といった内容を想像するかもしれないが、そんな微温的なものでは決してない。貧困とは何であり、それがどのように惹起し、またその対策としてどのような方法が現実的・効果的なのかをデータとお互いの経験をもとにして時には同意しながら、時には静かに火花を散らせながら、それでもよりよい社会はどのように作り出せるかに向けて生産的な議論を展開している。

 

論点は多岐に渡るので具体的には実見してもらうとして。
ここから学べることは、まず思い込みを捨てデータを具体的に見る姿勢を養うべきということ(ただし、データの見せ方はある程度コントロール可能なことは言うまでもなく、鵜呑みにするのは間違い)。次に他者とオープンな意見交換をすることがどれでけ重要であるかということ。複雑な現実を見れば、単純な自己責任論はただの害悪でしかないこと。他者を説得するためにはロジックが必要であること。特にこの4つであろう。

 

「弱者を救いましょう」という訴えは、「戦争反対」と訴えていれば戦争が防げると思うくらい救いがたくナイーブだし、自己責任論で片づけ自分はリスクヘッジしていれば何とかなると発想するのも全くのところ視野狭窄である。そのことを理解し、一歩を踏み出すきっかけとして、ぜひ一読をお勧めしたい(ちなみにこういう本で最終解が書いてあるなどと思うのなら、そういう発想はいい加減やめた方がいい。そんなものがあるならとっくのとうにやっているからだ)。

 

ちなみに私は、災害や貧困に限らず登場する短絡的な自己責任論の大合唱が、「国家や中間共同体へについて深く考えることを忌避してきた、戦後日本の畸形的ミーイズムの表象」と考えているが、それについて以下の動画を紹介しつつ、次回に詳細を書きたいと思う(キーワードは「リスクヘッジ」、「教育の偏り」、「最適化という名の奴隷化」とでもしておこうか)。

 

 

 

 

※余談

AIの話からなぜ貧困問題?
と思われた読者もいるかもしれないが、銀行が発表した大量の人員削減からもわかるように、今後雇用環境が劇的に変化することは大いにありえる。なるほどそれが人手不足と上手い具合にマッチングしてバランスが取れればいいが、採用枠の大幅縮小や解雇が進めば当然失業者の問題は出てくるわけで、その社会的包摂を考えなければならない。またロスジェネの雇用が問題となっているが、そこからあぶれた人たちが生活保護などを必要とした時に、老人の増加と社会保障費の増大、ロスジェネ世代の社会保障、失業率の上昇、賃金の上昇率が少ないことによる若年層の可処分所得の縮小→経済的余裕がなくなってリスクマネジメント(背景は自己責任!)に走らざるをえない若年層はますます結婚・出産を控え、どんどん人口は先細っていく。よく言われるが、人口減少そのものよりむしろ、少子高齢化こそが大きな問題なのである。しかし今、ますます少子化が進む要素は目白押しであり、それへの対応は急務である(なんせ出生数の低下は予想を上回っているしね)。つまり、一言で言うと「今は何とかなってるオメーの足元は、実のところ安全でも何でもねーよ」ってことですわ。


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