およそ二カ月ぶりのフラグメント。一年近く前のメモだけにほとんどは記事にしているが、中には何を意図して書いたのか完全に忘れたものもある(赤毛のアンの話などはなぜここで出てくるのかわからない)。
ちなみに最後の二つ(理念の押しつけ、フレーム~)は少し補足が必要で、価値観の多様化は確かに進んでいるが、これが全面的に肯定されているわけでは無論ない。例えば「多様性フォビア」などと言われるような拒否反応があるし、「ジェンダーフリー」に対するバックラッシュなどもあった(これは言葉が独り歩きした面が大きいようだ)。このような反応を「反動的」「時代遅れ」と言ってただ切り捨てるのは簡単である。しかし、それらの多くが自分の足元を掘り崩されるという(ある種生理的な)危機感から生じているのだとしたら、その構造そのものに目を向け分析・解体する(例えば「本能」の利用のされ方から、願望の正当化の構造を知る)だけでなく、危機感そのものへの肉薄・手当も必要になってくる(例えば「アホでマヌケな大統領選」に出てくるムーア召喚反対派の老人の言動もそのような危機感を思わせる)。当時のメモだと「価値観の多様化は変えられないんだから、それに適応できないヘタレは淘汰されていくしかない」的な書き方をしているし、それはその通りだと思うが、搦め手もうまく使って適応できない存在を包摂していかないと非常にめんどうな状況になる、というのもまた事実だ。
もう一つ言うと、「みんな仲良く」という思想の問題を指摘しているが、これは「ひたすら個でいい」という話ではなく、調和・共生の仕方、あるいはそれに関する理念が問題ということだ。学生たちに関して「人間関係が希薄化している」などと言われているが、それは「過剰な空気の読み合い」の結果、つまり「空気」という名の調和を乱さないための(必死の)努力の結果だと指摘されている(例えば土井隆義『友だち地獄』など)。とすれば、もしその状態に問題があると考えるなら、なぜそうまでして「空気」に従おうとするのか、その背景にある心性は何なのか?というレベルで分析しなければ意味がないことになる。逆にその視点があると、例えば「昔も確かに同一性はあったけれども、『空気』を過剰に重視することはなかった」というような疑問に対して、「逆に共通基盤がしっかりあったがゆえに、それをとっかかり(軸)にして『でもここはおかしくないか』と議論を構築できたが、今はそもそもとっかかりがないので、どこまで飛んでいいのかわからない(=承認の感覚や経験低い)。だから、飛ぶことよりもむしろ同じ部分を探し、維持するのに躍起になる(→「軸」へのしがみつき。いじめの構造にも関係)という行動が生まれる。つまり、共通基盤が極めて少ないがゆえに拒絶を病的に恐れる脆弱な自己が存在し、それゆえに『空気』を過剰に意識する(だけの)日和見主義に繋がる」といったような回答をすることも可能になるだろう。
以上の二つは、共通前提が崩壊したがゆえに共通前提を(強迫的に)求める、という行動様式の点で共通している。重要なのは、「共通前提が崩壊したがゆえに」という条件があるため、ただ価値観の多様性を認めるべきだと反論したり、理論の根拠を突き崩したりしても、生理的に拒絶されてしまう可能性が高いということだ。ナチスを民衆が支持した構造(不安のポピュリズム)なども参照しながら、その危機感・寄る辺なさの手当ても視野に入れながら問題の解決策を考えていくしかないように思われる。
<科学も宗教>
要するに、ラプラスの魔的な世界を貫く法則性が存在するに「違いない」と考え、あまつさえそのもとに服さ「なければならない」と考えるならば、それは全てを統括する神なるものが存在しており、その言葉に従うべしとする態度と何が違うのだろうか?ゲーデル、量子論。観測者の限界
<整形>
なぜ不快なのか?身体をいじることが×。じゃあ髪の毛切ったり髭剃ったり爪切ったり盲腸取ったり化粧したりするのは?マナーだろ…じゃあ身体をいじること自体がダメとは言えない。それらには戦略的メリットが…たとえば整形して美人になって前よりよく扱われたいというのは戦略的ではないのか?騙されている感じが…化粧は?服装をきちんとすることは?中身で勝負しろよ…人のイメージは第一印象で決まる。大多数の人間は「中身」なんか見る時間はないし、見ようともしない。それに整形でコンプレックスが無くなる(自信が持てる)なら、中身にも良い影響及ぼすのでは?
<至極のビブリオ完結篇、連結方式>
「保存同人」一言コメント集…一回データが吹っ飛んだので必ずしも満足いくラインナップではないが、それでもRODどころかRADな書物も含まれている。前から順に20冊ずつ。表紙の画像つける。聖リオ、ダシガラ、まこむけ、マイメロ夢の~。赤毛のアン再び。サフィズムより、入り口の問題、どこから入ったかより何を受け取ったかじゃね?権威と正当性。オタク嫌い?
<理念の押しつけ>
みんな仲良く→現実との乖離。乖離しているからこそ、逆説的にそのような思想が必要なのだと考える人もいる。しかし、成熟社会となり統一的な目標を定めにくく、それゆえ結婚やセクシャリティなど多様な価値観を肯定する趨勢の中にあり、それが不可逆的であることを考えれば、みんな仲良くという考えは現実との乖離を増大し続けるしかない。とすれば、そのような思想を教育によって埋め込むのは害悪にしかならない。1.社会に適応できない人間を生み出す。2.規範を嘲笑し、参考にしない者。
<フレームが変わらない限りオンリーワンはクリシェ>
3.規範が一人歩きし、「空気」なる空虚な同調圧力だけが実効力を持つという転倒した状況が生まれる。 これが害悪だ。個人主義化してバラバラになる?ナイーブすぎ。あるいはそのような極端な想定こそが、みんな仲良くを真理と考えていることの証左。まず違いや理解不可能な部分もあることを認めるところから始める。ただ、わからんから一人で好き勝手なことやってりゃいーやというわけにはいかない。ゆえに自分を理解してもらうようにし、相手を理解しようとする必要がある。つまりそれは相互尊重であって、同一化や埋没ではない。
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