昨年は様々なVtuberを見るようになった一年だったが、これは自分に限ったことではなく、コロナ禍の世界でいわゆる「巣ごもり需要」があったため、グローバルな現象となったことは言うまでもない。
そもそもある程度の豊かさが達成されたことで「成熟社会」となり、少品種大量生産のフォード型が終わりを告げたと言われる昨今において、価値観の多様化(と蛸壺化)も相まって多品種少量生産の傾向はどんどん進んでいる。さらに言えば、SNSの発達と利用が一般的になってきたことにより、万人が公共の場で発信者となれる環境が当たり前となりつつあり、その中でまずはYouTubeの躍進が必然的な現象だったと言える(各々が各々の情報を発信し、受け手は見たいものだけ基本無料で見ることができる環境は、多チャンネル化とその消費形態の極みとみなせるからだ)。
もちろん、そのことが直ちにテレビなどの死を意味するわけではない。たとえばテレビに関して言えば、年齢層による違いはあれど、若年層が全くテレビを見なくなったわけではないし(調査によれば50%程度)、テレビ自体も情勢の変化を受け手多チャンネル化などの対応を行っている(ただし、若年層のテレビへのコミットが、自分から積極的に視聴しているのか、例えばリビングで家族が見ているものを自分も見ている受動的な状態なのかで今後の動静は大きく変わりうる。というのも、仮に後者であれば、若年層が一人暮らしをした場合にテレビへコミットしなくなる可能性が十分あるからだ。それはあたかも、仏教が「イエの宗教」としばしばみなされていたがゆえに、戦後日本では就学や就職で共同体から離脱したことで一挙に宗教へのコミットが薄れ、結果的に日本人の大半が「無宗教」を自認するという状況を惹起したことに似ている)。しかし、オールドメディアへの不信感もあって新聞などとともにしばらくシェアが下がり続けることは疑いようがなく、そうするとクオリティの低下や人材の流出を招き、それがますますテレビ離れを加速させていくことだろう。
今でさえテレビはネットと参照し合う関係になってきているが、今述べたような変化によってますます差別化ができなくなると思われる。これは記者クラブやクロスオーナーシップといった既得権益を破壊することにはつながるだろうが、一方で資金力や取材力に乏しいメディアが林立することにもなるだろう。その結果、ますますソースの怪しい情報が跳梁跋扈することにもなり、それはすなわち情報の取捨選択をより困難にし、「見たいもしか見ない」傾向が加速して社会の分断はどんどん深刻になるだろう(価値観の多様化の結果ある種の分断が生まれることは必定だが、それが加速して熟義にコミットしないのはもちろん、他をコミュニティの成員とさえ認めないことが当然となるような状況が生まれれば、そしてそれでも今ある領域国家の存続を志向するならば、オーウェルの『1984年』的世界を自分たちが進んで作り上げ、相互監視しあうぐらいしか方法がなくなるのではないだろうか?あるいは選挙権にメスを入れて、「基本的人権は尊重する」としながらも納税額で選挙権を持たない二級市民が多くいるような、実質的階級社会を自分たちの意思で再度作り上げていくことで、「民主主義の体裁だけ維持する」ようなこともありえるかもしれない)。
閑話休題。
冒頭で述べたVtuberの躍進についても、手放しで喜べるものではない。ニュースになるのはどうしてもメジャーな存在ばかりなので、「スーパーチャットで1億円稼いだ」といった話が耳目を集めたりするが(一応言っておくとスーパーチャットはグーグルなどの手数料があり、企業勢なら企業との契約で30~40%ほど取られるとも言われているので、前述の額がそのまま手元に残るわけではない)、昨今見ている限りは企業勢の躍進が明らかであり、注目を集めてVtuberの数も急速に増えているからこそ、個人勢はよほど他では模倣できないような、少なくともそう思わせる魅力が何かしらなければ、中長期的に生き残ってくのは難しいと感じる。
例えば前述の「1億円プレイヤー」桐生ココなら、そのキャラクター性と英語力もさる事ながら、「朝ココ」という形で日本ではライバルがそれほど多くない時間帯に視聴者にアピールし、かつ海外勢をも取り込めるようにした結果大きく躍進したのであり、間違っても「ただ雑談をしていて巨額の金を儲けた」のではない。
それに、ただコンテンツが魅力的だからと言って人が見に来るとは限らない。Vtuberだけで13000人もいれば当然のことで、「どう自分の動画にリーチしてもらうか」をサムネイルなど含めて工夫する必要が出てくる。この点、懲役太郎やADHD黒井のバックアップをしている「太郎プロジェクト」の俺太郎が語る再生時間やそれによるYou Tubeの評価、およびそれを意識した動画作りやテーマ設定は興味深い(ちなみに懲役太郎は2020年の前半こそ時事放談的な動画が少なくなかったが、今では意図的にヤクザ用語豆知識などをメインにしているのも工夫の一環だろう。わかりやすく言うなら、「やりたいことをやるには、やりたくないこともやらなきゃいけない」ということである)。
その他では、クリムゾンなら漫画家であることを活かし、有名人の似顔絵を書く企画をやっているが、これはつまりメジャーどころの人間が動画などで検索された際に、自分の動画もお勧めに出てくるようにする工夫と考えられる(こうすると、元々クリムゾンに興味がなかった視聴者にもチャンネルに来てもらえるきっかけが作れるというわけだ。なお、これは下衆の勘繰りかもしれないが、この企画を読者投票という形を取ることによって、「自分のチャンネルのために有名人を利用している」感を薄めているようにも思えるが、仮にそうだとしても私は然るべき工夫だと感じる。ちなみにこの動画によって、江頭2:50がクリムゾンのツイッターにリプライをしたらしいとのことだ)。
以上要するに、ホロライブやupd8という箱に所属していたり、あるいは20年以上活動している人気の同人作家というブーストがあったとしても、伸びるには各々考えて工夫している(upd8をホロライブと同列に語るのは仕組み上違うことは認識しているが、一応「メジャーな箱にいるという点で同列」とさせていただいた)。そのような工夫は、企業に定時で出社して月給をもらい、定期的に評価を受けて・・・という働き方ではないからこそ、なおいっそう必要性が増しているとさえ言っていいのである。もちろん「工夫すなわち苦行」ではないにしても、「好きなことだけして生きていく」などという状況とは何と遠いことか・・・という話である。
というあたりで結構な分量になったので今回はこの辺にしておきたいが、Vtuberがメジャーになったことについてはもちろん他にも重要な話題は様々ある。たとえば、メジャーに近づいたからこその問題点とその噴出はその典型で、それは内部的・外部的リスクマネージメントとそれができる体制構築という話になっていくだろう(これは今日ますますセンシティブになっている権利関係や契約関係の問題、あるいは誹謗中傷への対策などが挙げられる)。
次回はこの辺を掘り下げていきたいが、少なくとも次のようには言えるだろう。Vtuberの躍進などを契機に、働き方やエンターテイメントのパターンは広がり、また今後アバターが普及していく可能性も高めたとは言える。しかし、「ユートピア」なるものは文字通り存在しないし、ゆえにそこに到達することもまたない。というのも、技術に善悪はないが、使うのは人間であり、そこには歴史上必ず問題が伴ってきたからである、と。
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