ちーちちっち、おっぱいボインボイーン♪
四回目の死の日曜日が終わったところで、目の前にあるのは水木の連休。この状況では、たとい強烈な頭痛と胃痛に悩まされようとも気分が踊ろうというものだ。さて、上諏訪に遠征したことは以前書いたが、分量が多くなるために扱わなかった話題が二つある。ここではそのうちの一つ、「繋がり」について述べたい。
上諏訪を訪問した際、花火を見に来た人たちでごった返していたわけだが、それを見て相方が言うには、「こういう人たちは花火のためではなくて集まるために集まっている」だとか。なるほど、花火は「目的ではなく手段」、というわけだ(もっとも、純粋に目的、純粋に手段、ということはそんなになく、割合の問題の場合がほどんどだろうけど)。このような話は旅行、映画、飲みなど色々なものに適応できるが、「中身よりも繋がることが大事」というふうに考えれば、特に要件のないメールのやり取りなどを思い起こす方もいるだろう。またその他にも、記事の内容や思想に練成というよりもむしろ井戸端会議的な、つまり悪口などを話のタネに「繋がる」、盛り上がるが如きネットでのやり取りを連想する方もいるだろう(例えば、「嗤う日本の「ナショナリズム」』などは、一見するとナショナリズムに基づいているかのように見える話題が、実は繋がるための手段なのだ、と指摘している)。
このようなメール、ネットによる繋がり方について話すと、「空虚なやり取り」としてそういうものを批判したい保守的な御仁は喜ぶかもしれんが、そのような見解はいささか短絡的であるように思える。確かにメールやネットは(誤解を恐れずに言えば)新しいものであるし、ゆえにそれに絡んだものは新しいと感じるだろうが、「繋がりが目的」であるという点に注目するなら、それは決して目新しいものではない。というのも、先ほど述べたように、井戸端会議のような形を通して昔からそういった内容を重視しない「空虚なやり取り」は存在していたからである(もちろん、それを求める程度が変容した、という見方は可能だが)。
ちなみ、この「繋がりを目的」としたやり取りについて考えるとき、私は歳暮や中元、あるいは年賀状のやり取りを連想する。それらが始まった頃は、贈ることが繋がりを目的としたものではなく、有力者などの歓心を買うといった手段の側面が強かったかもしれないが、今日においては儀礼的な側面が強くなっているように思われる(会社の関係者たちに何百通も年賀状を出したりするのは明らかに不合理ではないか)。その裏には、とりあえず送っておくかというような考え(何も贈らないのは何かよくない感情の表れであるかのように感じられる)、そしてそのような贈物がお返しを要求する(返礼をしないと、実害がある場合もあるだろうが、何より「心苦しい」と感じる)という構造があるように思われる。
(歓心を買うなどの)特に重大な要件もなく物を贈り、そして心苦しさからのお返し……こう考えると、重要な用事を伝えるわけでもないメールが飛び交い、かつそれが返信を要求し、メールの連鎖へと繋がっていくという現代的に見える状況もまた、実は昔からある贈与の構造と同じ、ないしは近い精神性によって成り立っているという風に見ることができるのではないだろうか。
この議論を展開するなら、そういった贈与が盛んな地域はメールのやり取りも盛んなのか、といったことも考えていかなくてはならないだろうが、それにしても、新しいと感じられるものに距離を置いてみると、実は過去と強い連続性があったりそれとは違う形での表れであることに気付く場合も少なくない。
だから、自らの感覚に安直に身を委ねるのは危険である(もっとも、自分では論理的に考えてるつもりになったりするからまた厄介なのだけど)。でなければ、問題の本質を見失うばかりか、自分のいた時代の性質さえも見落とすことになろう。それがまさに、「まとも」という思考の枷に縛られるということなのだ。
四回目の死の日曜日が終わったところで、目の前にあるのは水木の連休。この状況では、たとい強烈な頭痛と胃痛に悩まされようとも気分が踊ろうというものだ。さて、上諏訪に遠征したことは以前書いたが、分量が多くなるために扱わなかった話題が二つある。ここではそのうちの一つ、「繋がり」について述べたい。
上諏訪を訪問した際、花火を見に来た人たちでごった返していたわけだが、それを見て相方が言うには、「こういう人たちは花火のためではなくて集まるために集まっている」だとか。なるほど、花火は「目的ではなく手段」、というわけだ(もっとも、純粋に目的、純粋に手段、ということはそんなになく、割合の問題の場合がほどんどだろうけど)。このような話は旅行、映画、飲みなど色々なものに適応できるが、「中身よりも繋がることが大事」というふうに考えれば、特に要件のないメールのやり取りなどを思い起こす方もいるだろう。またその他にも、記事の内容や思想に練成というよりもむしろ井戸端会議的な、つまり悪口などを話のタネに「繋がる」、盛り上がるが如きネットでのやり取りを連想する方もいるだろう(例えば、「嗤う日本の「ナショナリズム」』などは、一見するとナショナリズムに基づいているかのように見える話題が、実は繋がるための手段なのだ、と指摘している)。
このようなメール、ネットによる繋がり方について話すと、「空虚なやり取り」としてそういうものを批判したい保守的な御仁は喜ぶかもしれんが、そのような見解はいささか短絡的であるように思える。確かにメールやネットは(誤解を恐れずに言えば)新しいものであるし、ゆえにそれに絡んだものは新しいと感じるだろうが、「繋がりが目的」であるという点に注目するなら、それは決して目新しいものではない。というのも、先ほど述べたように、井戸端会議のような形を通して昔からそういった内容を重視しない「空虚なやり取り」は存在していたからである(もちろん、それを求める程度が変容した、という見方は可能だが)。
ちなみ、この「繋がりを目的」としたやり取りについて考えるとき、私は歳暮や中元、あるいは年賀状のやり取りを連想する。それらが始まった頃は、贈ることが繋がりを目的としたものではなく、有力者などの歓心を買うといった手段の側面が強かったかもしれないが、今日においては儀礼的な側面が強くなっているように思われる(会社の関係者たちに何百通も年賀状を出したりするのは明らかに不合理ではないか)。その裏には、とりあえず送っておくかというような考え(何も贈らないのは何かよくない感情の表れであるかのように感じられる)、そしてそのような贈物がお返しを要求する(返礼をしないと、実害がある場合もあるだろうが、何より「心苦しい」と感じる)という構造があるように思われる。
(歓心を買うなどの)特に重大な要件もなく物を贈り、そして心苦しさからのお返し……こう考えると、重要な用事を伝えるわけでもないメールが飛び交い、かつそれが返信を要求し、メールの連鎖へと繋がっていくという現代的に見える状況もまた、実は昔からある贈与の構造と同じ、ないしは近い精神性によって成り立っているという風に見ることができるのではないだろうか。
この議論を展開するなら、そういった贈与が盛んな地域はメールのやり取りも盛んなのか、といったことも考えていかなくてはならないだろうが、それにしても、新しいと感じられるものに距離を置いてみると、実は過去と強い連続性があったりそれとは違う形での表れであることに気付く場合も少なくない。
だから、自らの感覚に安直に身を委ねるのは危険である(もっとも、自分では論理的に考えてるつもりになったりするからまた厄介なのだけど)。でなければ、問題の本質を見失うばかりか、自分のいた時代の性質さえも見落とすことになろう。それがまさに、「まとも」という思考の枷に縛られるということなのだ。
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