細川重男の本は『鎌倉幕府の滅亡』とか『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』などそれなりに読んできたけど、実際に話しているのは初めて聞いたがクッッッソおもれーー😆!!
歴史研究者っていうより、「講談師」・「カシラ(頭)」って感じやねw文章でも恨み節とか書くときはえらいラフな感じ文体になるなと思ってたが、なるほどさもありなんという印象(書籍の著者紹介だと眼光は鋭いがメガネでちょっと神経質そうな研究者然としていたので、動画のサムネでそもそもあれ、と思っていたのだがw)。
今回「武士とは何か」という話なのだが、「武士ってのはヤクザだよ」というストレートかつ論理的説明でわかりやすい部分と、ご自身の武勇伝を語る部分のギャップがおもしろい。ただ、春木がフォローがてら話しているように、そういう武士という集団の根源にある「私的・情緒的紐帯」のあり方を考える上で極めて興味深い内容だった(なお、そういう集団が武力的性質を帯び、それが時の政権に必要となったことで合法化・強大化したというのが武士ということである。この点ついて、その成り立ちと性質が武士に似ているのは中華地域の幇、イスラーム世界のアイヤール、イタリアのマフィアなど世界にも様々見受けられるのだが、その集団が公権力として長い間国家を支配したような地域・時代は管見の限りないのではないかと思う)。
この話で重要なのは、これまで語られてきた武士像というのは、あまりにも「政権側が打ち出したい武士像」に寄ってきたということだろう。まあよく考えれば、それもそのはずである。というのは、1185を鎌倉幕府の起源に設定するなら、江戸幕府の大政奉還まで(南北朝の動乱などはあっても)700年強が武家政権だったわけで、さらにその後の明治政府でも、担い手は下級武士たちであったから帯刀などを廃止したとは言っても武士を全面的に否定することはせず、かつ明治後半では新渡戸稲造が『武士道』を発表してそのエートスを日本人にとって重要な柱だと主張するなど、武士の精神性はむしろ近代以降も称揚されていたのだった。
このような傾向は、江戸時代に庶民の間で流行した『甫庵信長記』や『陰徳太平記』といった軍記物、あるいは『仮名手本忠臣蔵』などで醸成・強化された庶民文化と相まって、日本の中に深く根を下ろすことになった(なお、『喧嘩両成敗の誕生』でも述べられているように、中世においては自力救済の原則があり、共同体同士が報復合戦をして殺し合いにまで発展した事例を想起したい。武士=支配者・武装集団、民衆=被支配者・非暴力を旨とする・・・といった図式的理解は誤りである)。この点については、日本史で人気がある時代が、今もって武士の存在(もしくは武士のエートス)が表面化するように見える戦国時代や幕末の二つであることを踏まえると、21世紀の今でさえ、そういった傾向が残存していると言えるのではないか(ただし、興味の対象が武士の原初的形態が最もよく表れる中世や古代末期では決してない=あくまで理念化され、かつそれが闘争という形でわかりやすく表れる時代にしか目を向けない、という特性には注意を払う必要がある)。
なお、かかる認識は単なる文化論のように思われるかもしれないが、筒井清忠『近代日本暗殺史』の紹介で触れたように、それは権力者の暗殺にお墨付きを与え、後の昭和維新(五・一五事件など)に同情的世論を形成して日本の軍国主義化を後押ししたという点では、戦前日本の動向に極めて大きな影響を及ぼしたという事ができる(先に述べた「忠臣蔵」の評価と太平洋戦争との連関性については、「赤穂事件と太平洋戦争のアナロジー」などを参照。なお、新聞などのマスメディアは、購買者離れを恐れ、対外積極策を煽ったり暗殺に同情的世論の掲載・普及に加担したりした点で、共同正犯である→里見脩『言論統制というビジネス』なども参照)。
さて、こういった理解を踏まえると、翌月に控えている北野武の映画「首」が意図したものも理解しやすいはずだ。
つまり、今の日本でやたら戦国時代だの幕末だのがもてはやされてるが、それは「英雄がしのぎを削ってる」面ばかり見ているからで、藤木久志『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』で描写されたような、敵対者や民衆への凄惨な行為をどれだけ理解しているのか?という問いかけである(これは武士や戦闘の暗部を捨象した「武士道」の欺瞞とも通じるものがあるが、例えば先の大戦に関し、兵器や領土拡大などだけ見て熱狂しながら、捕虜虐殺やカニバリズムなどには眼を向けない欺瞞とも似ている)。
その意味で言えば、「筋を通す」と言えば聞こえはいいが、その実は保身や忖度にまみれた欺瞞的構造を描いた「アウトレイジ」第一作と同じ狙いの元に描かれた作品だと思われる(その「アウトレイジ」も、結局は続ける予定のなかった二作目以降で「筋を通すのカッコいい!」て話になってしまったけどね。やれやれ)。
というわけで、「首」については、昔ながらの信長像など描写の軸に問題点は感じながらも、武士の都合の良い面ばかりかしか認識してこなかった一般層の認識が変わる一助にはなるかもしれない、と期待する次第である。
さらにここで映画「ALWAYS 三丁目の夕陽」がなぜ欺瞞に満ちているのか、といった観点で地域共同体の複雑性(これは一部でジャニーズ問題や宝塚、あるいは旧日本軍の問題にもつながる)についても書こうと思ったが、さすがにかなりの量になったので、それは他日を期したいと思う。
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