震電という名の神話:その実態と運用可能性について

2022-07-24 11:29:29 | 歴史系

 

 

 

 

自分が初めて戦闘機の映像を見たのは、3歳の頃で母方のじいさんに見せてもらった8ミリだと記憶している。その時にも確か「震電」の開発が間に合えば戦局は変わっていたかも…というようなことを言っていたように思う。

 

その後自分は戦史の研究にも架空戦記の類にも関心を示さなかったので、それが妥当なのか検証する機会はなかったが、今回これらの動画を見て「神話」がどのように形作られていったのかを興味深く拝見した(日本の事例だけだと感情的に反発してしまう向きもあるだろうから、ドイツのミサイル開発と失敗に関する動画も見てみるとよいだろう)。

 

「まあ素人は戦術を、玄人はロジスティクスを語る」というのに似て、「新兵器があれば戦況は覆せた」みたいな発想は割とありがちなものである。しかし記憶の限り、「戦争中に新兵器ができて戦局が激変した」というケースは存在しないのではないか?この認識が正しいのならば、新兵器頼りの発想はまさしく、「現実から遊離した空想の産物」と断じざるをえないだろう(思うに、戦後日本の経済成長は、経済ナショナリズムと相まって、「物量では負けたが技術力では勝っていた」といったような形で空想を正当化・強化する役割を果たしたのではないか?)。

 

さらに言えば、その奥底では、「負けを認めたくないから、~さえあれば勝てる(勝てた)と考える」という一種の認知的不協和が生じているのではないか、と思えるのである(これは日米の戦争について問われた際に「短期間なら暴れ回ることができる(勝てるとは言ってない)」と発言し、最終的には勝てないことを認め敗北主義の汚名を被るより、「空気」を呼んだ勇ましい発言をした方がポジションが維持できる、といった当時の状況をも想起させるところだ→『失敗の本質』『「空気」の研究』などを参照)。

 

あるいはそのような発想は、日本関連の事柄が己の自尊心と直結してしまい、冷静な評価ができないことに起因しているのかもしれない。仮にそうだとすれば、能力を適切に分析・評価できない姿勢が(より正確に言えば、セクショナリズムによってそれらを適切にまとめあげてアウトプットできなかったことが)、あの無謀な戦争を引き起こした大きな要因だったことを忘れたのだろうか?と問いたいところではある。もし「国」・「郷土」なりを愛していると主張するのなら、なおのこと痛切な思いを持って不都合な現実を直視し、希望的観測を極力慎もうと考えるものだと私は思うのだがどうだろうか(まあそれも、かつての原理日本社的否認の態度であったり、あるいは「日米はハメられたのだ」として問題を逸らそうとする陰謀論が少なからず力を持っている状況からすれば、そういう思考様式にならない必然性もある程度理解はできるのだが)。

 

とは言いつつ、だ。
今後は日本の経済衰退がさらに進むだろうから、そうして国際的地位が低下していった際、過去の栄光にすがろうとして不都合な現実を否認する傾向はさらに強くなるのではないか、と予測される(共同体崩壊による分断・孤立化も、その傾向を助長するだろう)。なぜなら、そこで求められているものは「多角的検証による蓋然性の高い事実」などではなく、「己の不全感を穴埋めするのに都合のよい嘘」でしかないからだ。

 

そういった「癒しのナショナリズム」はちょうど高校の頃に歴史修正主義という形で流行し、私が日本史を学ぶ道を選ばなかった主要因となったが、あるいはその強化・劣化版がこれからの日本には吹き荒れるのかもしれない。

 

というわけで、改めて中立的な視点の動画の貴重性を指摘しつつ、この稿を終えたい。


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