フラグメント251:相対的剝奪感、同朋意識、他者性の欠落

2024-06-05 11:23:50 | フラグメント
フラグメントについては、過去(の主に日本人)に対するステレオタイプ(思い込み)に関連して先日まとめたばかりだが、次のフラグメントが
今書いている古典教育に関する論争の話にも深く関わるので、取り上げてみた。
 
 
〈ブータンとリベラルナショナリズム〉は、ネットなどによる言わば「過視化」がもたらす相対的剝奪感に関するもので、これは「弱者男性」の被害者意識などともリンクする。ところで、その他にも様々な領域で社会の分断と別集団への敵意が加速するという、ルサンチマンの拡大と妬み・嫉みの暴走が見られたりするわけだが、さてこのような状況において、古典教育が目的とする「国民意識の涵養」なるものがどのように歯止めとして機能しているのか、ぜひ具体的な事例を元にご教授いただきたいものである。
 
 
というより、私としては、過去を深く知り、それを共通見解・共有材とすることで醸成される同族意識そのものに、一体どのような価値があるのか極めて不透明に思える。ただその副次的効果にまで考えを広げるなら、それは例えば「同朋であるがゆえに我が事として相互扶助の対象とする」、つまりリベラルナショナリズムなどは思いつくところだ(この言葉から「結果の平等」を求める社会を連想するかもしれないが、それは間違っている。いわゆる福祉国家はそもそも1970年代にその限界が露呈して新自由主義や第三の道が提唱され今に到るわけだし、まして共産主義などありえない、という話である)。
 
 
これは単に「私の仲間だから助けよう」という素朴な意識に限らない。例えば、グローバル企業がタックスヘイブンに会社を作ることで、様々な国の原資を利用しながらも、そこに税などは還元せず、ある種コモンズにフリーライド的に乗っかる態度を問題視する、といった態度にも繋がりうる(そう言えば、一昔前にパナマ文書やパラダイス文書なんてのが話題になりましたな)。
 
 
これを「違法行為じゃないんだから何が悪い!」と放置するのではなく、「それにより自分たちの共同体が空洞化するから問題だ」として、共同体にとってのフリーライドを規制するためにグローバルタックスの設定を考える。あるいはスローライフ運動というのもあったが、便利さだけに着目してGAFAM的なものをひたすら歓迎するのではなく、地産地消による地域社会の維持・活性化を図るetc...といったような地に足をつけた郷土愛(パトリオティズム)と、それに基づく社会設計を考えるといった意識・行動に繋がらない「国民意識」とやらに、私は何の意味があるか皆目見当がつかないのである(もちろん、先のような話に関して、それが「郷土愛」といった美名を語りながらその実は何の工夫もせず既得権益の保持だけを考えるような態度を都合よく隠蔽しているだけの可能性も、常にウォッチしておく必要はあるが)。
 
 
いやもっとはっきり言えば、そのような「国民意識」とは、伝統や同質性を喧伝し、そのような国家に奉仕すべしという意識だけ植えつける一方、身近な社会やその成員に何が返せるのかという視点を欠いているという意味で、テイカー(taker)の発想と同類に見える。それは喩えて言うなら、人手が足りないと言いながらその実「都合のいい奴隷」を求めているブラック企業であって、美名の元にやりがい搾取を納得させる手法ではないか。
 
 
念のために言っておくと、今述べた見解も偏ったもので、実際には防衛や外交、福祉だの様々な場面で政府の庇護の元に生活している訳だが、それは今の指導要領で言えば「公共」のような科目で教えればよく、ではそこに古典教育が涵養する「国民意識」とやらがどのように関わるのか?と問うているのである。
 
 
ゆえに私は、今述べたような認識を欠いた「国民意識」やその涵養に必要な古典教育などと言っても、それはマクロな領域ではただの洗脳装置でしかなく、ミクロな領域では懐古趣味や権威主義の域を出るものではない、と評価するのである。
 
 
次の<セクサロイドの記事>は古典教育の話とはちょっと外れていて、「そんなに他者をコントロールしたきゃセクサロイドでも買ってろ」を枕とした内容で、要は「願望」と「現実」を混同するなよという話であり、これは一切皆苦の説明ともつながる(ちなみに言うと、こういう他者性の欠落した言説や、あるいは個人の願望と公益性を混同した言説が古典教育必要派・不要派とも広く見られ、そういう「不毛のエキシビジョン」としてもなかなかにその論争はおもしろいものであるw)。
 
 
まあとはいえ、見たものしか信じなかったとも言われる(ある意味ピダハン的な)ネアンデルタール人に対して、妄想の共有によって巨大なコミュニティを作り上げることが可能となったクロマニョン人が、見えないものを使ってまで必死に我々の存在意義や存続の理由を説明しようとするのはもはや、宿痾なのかもしんないっすネ(・∀・)
 
 
最期の<無題>は、「ねるねる的想像力・創造力の可能性」の元記事となっている。ここで言いたいのは、一見「何の役に立っているのかわからん」と思えるものが、実は我々の生活を様々支えており、ゆえに短期的でわかりやすい実利ばかりを求める傾向は、むしろ社会の可能性を縮減して長期的にはその衰退を惹起しかねない、という話。こういう視点からも古典教育の価値はプレゼンしうるのだが、いかんせん数学などと違って古典教育不要派に納得されるような実例を出すのが極めて難しいのが厳しいところですな。
 
 
というわけで、以下原文。
 
 
 
2019/02/25~03/05
 
 
〈ブータンとリベラルナショナリズム〉
マル劇動画。同胞意識の欠落。だから配給が上手くいかない。災害ユートピアの件。幸福度が低い理由。常に空気と世間に抑圧されている一方で、自分がいざ評価する側に回ると、その苦しみを他者も味わえとばかりに抑圧する言説を平気で垂れ流す。
 
なるほどそれでも、その空気や世間が共同体的な包摂を伴っていたなら、それは一定の機能を果たしただろう。しかし、今はもはやそうではない。大きな経済衰退のうねりの中で、都市部及び生存戦略に成功した一部の地方を除き、奈落の底に落ちていくだろう(ちなみにそうだからこそ、地方からは若年女性が、婚姻率や出生率の低い都市部にどんどん流出し、ますます非婚化や少子化は止まるどころかさらに加速する。生存戦略上それが合理的なのだから、精神論を振りかざしたところで全く無意味である)。誰もが常に炎上に怯えながら、同時に(あたかも不安と抑圧で増幅された不全感を他で晴らすかの如く)噴き上がりの構えを常に解こうとしないのである。中国人の移民希望者に関する記事。
 
この見立てが正しければ、日本人の幸福度や自己肯定感が低いのは、むしろ当たり前である(日本にもいることはいるが、それはしばしばメタ認知能力を欠いた愚か者だったり、自己陶冶を経ない中二病的なものになりがち。その理由は他者との対話が欠落してるからだ)。
 
治安の良さ、サービスの質、自然環境の保存があるではないか、という反論。むしろ逆で、「それでもなぜ幸福ではないか」といいっそう真剣に考えるべき。治安は日本人が世界の実情への無知により、それを当たり前のことと思い込んでいるのかもしれない。サービスの質は、過剰な要求や過重労働と裏腹な関係。そして自然環境は災害と隣り合わせ。何事も良いとこ取りはできない。
 
これらの問い無しに肯定も否定も無意味だ。ただ己の日本感を吐露して終わるだけだろう。
 
 
 
〈セクサロイドの記事〉
 
むしろ、一体いつから、人類の存続が自明の理になったのか??
 
私はあえて併記しているが、例えば「子供が愛しい」と思ったとしても、その子供が他の子どもより特別に長生きすることを全く意味しない。それはどこまででも、「あれかし」の話なのである。それと同様に、人間やその社会を肯定的に捉えたとしても、それと人類の存続に論理的必然性があるというのは、全く別の話である。
 
私はこの世において、必ずしも苦が楽に勝っているとは思わない(仮にそう主張する人がいるのなら、「どうしてそう認識しているにもかかわらず、あなたは今すぐここで死のことを選ばないのか?」と問うだろう)。また反出生主義の立場も取らないが、しかし人類の存続に必然性はなく、例えば仮に地球のサステナビリティーというより大きな枠組みにフォーカスするなら、むしろ人類の死滅こそ善であるかもしれない、と言っているのである。そして、仮に地球という惑星にフォーカスしたとしても、この広大な宇宙においてはその滅亡などそこらの塵が吹かれて飛んだ程度の出来事に過ぎないのだ。
 
 
 
〈無題〉
ピタゴラス教団。数が根源。はぁ?弦の長さと音階(この体系化あってのストラヴィンスキー)。あるいはフーリエ変換。三角関数が音楽に深く関係している(三角関数いらないとか主張するってバカなのw)。
 
教団が否定したイマジナリーナンバー。複素数。暗号として現代では携帯電話に利用。
 
自明のように、あるいは自動的に生きているこの世界の諸々の事物は、我々が一見不要のように思っているものの数多の体系の中で成り立っている。
 
てわけでこの動画。
 
数学の基礎っていうか記号論理学な。算数苦手な子供がスタックするパターン。なぜその2とこの3を同じように扱えるのかわからない、てヤツ。筒井康隆の「1について」。2と認識するのは、未来もそうだ。ヴィトゲンの発言。何で人は明日も同じように世界があると思っているのだろうか?クレイジー?いや恒常性?とパターン認識の話。クリプキの固有名。何の役に立つの?東浩紀の動画。
 
人工知能のプレゼンスが大きくなっていく中で、我々は自明のように思っていた諸々のことを非自明なるものとして立ち合い、検証せねばならない。
 
具体例は足し算よりlogとかの方がよかったんじゃない?記号である方が、ただの決め事であることがより伝わりやすい。エルオージー、線の羅列。これはゴキブリは気持ち悪いのは自明と思ってる人が多いが、猫はそうではない。だから、グロテスクな側面を見せれば異化効果がある。
 
その意味では、ここで述べられていることは衒学的などでは全くなく、むしろ極めてactualな問いと言えるのである。
 
共感の欺瞞、視覚情報の恣意性、スマホから見た世界、信号機、鍾乳洞、言語。アカシックレコード、アウクスブルク、ハンブルク、ローテンブルク。エディンバラも同じ(スペル見るとブルクだから)、ローゼンボリは??
 
しかし一方で、このようなアルゴリズムが膨大化・多様化していけば、遠くない将来技術は<魔法>と区別がつかなくなるだろう(七十二文字)。その構造を知りたいなんて思わないし、そもそも追い付けやしない。
 
私がneoreactionismの立場をとる理由。

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