フラグメント249:呼称、政治性、境界線侵犯

2024-04-20 16:45:24 | フラグメント
 
 
 
 
古典学習琉球史の話を出したので、ちょうど似たような問題意識に繫がる覚書を掲載しておきたい。全体に共通するのは、境界線の曖昧さや両義性・多義性であり、もっと言えば、それを「愉しむ」姿勢を身に着けられるか否かが、特に今後の世界を生きる上では鍵になってくるのではないか、という話になるだろう。
 
 
逆にそうでない限り、増え続ける「ノイズ」に抗っていくことは難しく、適応力にもよりけりだが、遅かれ早かれAI的なるものに取り込まれたり、あるいは蓑田胸喜的=原理日本社的な攻撃性・排外主義(cf.「右翼思想のエートスを知る」)の虜になることは避けられないと思われる。
 
 
 
2019/01/28
 
〈方言と想像の共同体〉
津軽弁、熊本弁の差異。ポプテピピック・ウチナーグチ、むしろ発音はハングルに近い?、『はじめての沖縄』、国民国家の境界線によるバイアス。北海道二回旅行、美幌は「ぴぽろ」。アイヌ語に濁音はない。おもろー。漢字化することで元が忘却される
 
新羅がシルラ、百済がペクチェ。アカシックレコードの記事。由来や関係性を知るのがおもしろい、という話。しかしまた、いかに呼称というものが政治性を帯びているのか。そして私ないし私たちがその中に取り込まれているのか。
 
アルザス・ロレーヌとエルザス・ロートリンゲン。
 
メッカやメルブはともかく、マホメットと聞くといささかぎょっとする。マッカ・マルウ・ムハンマド。アラビア語の法則性、オリエンタリズム。
 
「現地読みに忠実であることが常に正しい」というのではなく、他者性を内包しているのにそれが隠蔽され、そのフォーマット、もっと言えば価値観に飼い慣らされ、知らず共犯者になっていることがある、ということ。
 
日本で「共通語」が正しいとされた背景。近代国民国家の形成。とはいえ、戦前は送り仮名は片仮名で、しかも右から左に書いていた。近代以降でさえ、実は様々な変化が見られる。「保守」を主張している人間が、やたら間違えてる(不変性・普遍性を妄想する)のは何なのか。本当は歴史に興味ないのでは?飲み屋の親父の放言レベル。もしくはそう言っとくと、ある一定の層の指示を得られるからでは?
 
「終戦」と「敗戦」。前者は戦争が自然に終わったかのような欺瞞。空襲を「天災」のように感じていた人々の印象と共犯関係となり、忘却の一助となった?「小乗」と「上座部」。大乗側による非難の呼称。
 
ただの言葉狩りにならないように気を付けるべきと思う一方で、何も知らないはナイーブすぎやろ。
 
 
〈muffet.忠臣蔵〉
「かわいい」・「素敵」と感じることと、その行動に批判的な感情を持つことは同時に成立しうる。それを無理にどちらかへ統合させようとすることが実はありがちな欺瞞(認知バイアス)である→バイナリーな思考。感情と理屈の二項対立させ、「感情の方が幼稚」と言う。ならばその考えこそ幼稚だ。というのも、感情こそ人がどう動くか、動かせるかの土台だから。「理論立った」ものが、しばしば感情・感覚から始まっているものは多い。むしろ、直感に従うと正しく思えるのに、実はそうではない事例、つまり世界にしばしば見られる逆説に向き合うことなく、理屈で誤魔化している人間がどれだけいることか。
 
極限状況、愛と意味の違い。愛する者には意味があるはずだという思い込み。愛着を感じるのは端的な事実性。愛があるから意味もある、というのは価値転倒の極み。意味があるかどうかは知らん。ただ、この人が自分にとって大切な存在であることは間違いない。それでいいではないか。一体何に怯えているのだろうか?
 
 
血の轍
毒親が一般に認知されるようになってきた。にもかかわらず、作られ続ける近親モノ(milf)。
 
タブー、内向き志向、甘え。しかしアダルトサイトの人気ジャンルという点ではグローバル。フロイトの呪いかw
 
まあメンヘラもそうだが、「外から見てる分には適度な刺激」なんだろう。しかしそれが、現実の離脱困難な緊密な関係性になった時、「呪い」となる。

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