フラグメント243:因果応報、ヨブ記、世界像

2024-03-05 16:55:14 | フラグメント
 
 
 
 
かつての覚書を振り返っていると、一体あの時どういう心境でこれを書きとめたのだろうかと不思議に思うことがあるが、ただその内容を吟味してみると、むしろ最近まとめた記事の根底にある発想が数年、あるいはもっと前から存在し、それが偶然ある作品や動画によって強く惹起されたものが表面化したものにすぎないのだと気付く。
 
 
 
 
2018/12/21
 
〈無題〉
正確に言うと、「意味がないから拘泥するのは愚かだ」と思う一方で、そういうものに引き付けられざるをえない人間の生き様や、それとどうにか折り合いをつけようとして煩悶したり、あるいは静かに する人々の姿は興味深い。
 
だから「灰羽連盟」は興味深い?
まさしくその通り。
 
善きサマリア人の法、マグダラのマリア。戒律に書いてないから瀕死の人間を助けない。戒律に書いてあるから生活に窮して娼婦に身をやつした人を糾弾する。
 
戒律にあれば助ける、戒律になければ助けない。
 
救われたいから戒律を守る。救われたいから内面を正しく保つ。
 
「ちゃんとしているのだから救え」と神に要求。善行と救い。
 
『ヨブ記』のもたらす困惑は何か。
 
「信長は天国へ行った?」で照射された私の思い込みは何か→後の「私を縛る『私』という名の檻」
 
「因果応報」という先入見。実際には矛盾する事例など腐るほどある。だからその矛盾を埋めるためにも天国・地獄の世界観が要求される。
 
あるいはプロテスタントの信仰義認説や予定説。カトリックの贖宥状(教会の言う善行)に対し、「神は金を受け取らない」と否定する。
 
日本における天台宗の改革や浄土宗のエートスを思う。これらを「堕落」や「大衆化」と言うのは容易い。しかしながら、生きるために働き続けるしかない人々が、言い換えれば戒律に殉じることも修行をやる余裕もない人々は救われようがないのだとしたら、一体それは何の「大乗」なのだろうか?→ロールズの「無知のベール」的発想との結節
 
 
 
〈境界線侵犯〉
がおもしろい。
 
強固な世界像があるからこそ、その逸脱がおもしろいと感じられる。かつての現代芸術の強度と、今は袋小路にはまり込んでいる理由。新古典主義や印象派といった「写実」からの逸脱としての表現主義やキュビズム、シュールレアリスムなど。そして今日では、もはや土台がないゆえの跳躍不可能性に直面。砕け散った瓦礫の中で途方に暮れ、星座を見ることも叶わない。
 
セックス、知る、背景。それを別物だと思う。
 
しかし私は、世界がどうなっているのか知りたい。
 
体系的な世界像を求める点でむしろ極めて「近代的」な人間。だから逆にイーガンの作品Euphoriaなどに感銘を受ける。
 
仮に違いがあるとするなら、それは「開かれてる」ということ。なぜなら、私は何も知らないと思っているから。それが思い込みでしかなく、容易にその世界像が砕け散ることは理解している。

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