君が望む永遠:「究極」の二股ゲーム

2007-03-14 20:46:24 | 君が望む永遠
(序)
久しぶりに君が望む永遠(以下君望)の話。以前鳴海孝之の行動原理を理解するための記事を書いたが、それをもう少しわかりやすい形で提示したい。なお、この内容を見て「それなら遥を選べばいいことじゃないか」と言う人がいるかもしれない。そういう人はぜひ君望のアニメ版を見てほしいと思う。


(本文)
時に君望は「究極の二股ゲーム」と評されることがあるが、その表現はプレイヤーの意識を「選ぶこと」に集中させてしまう恐れがある。しかし君望をプレイする際で重要なのは、「究極」が一体どういう内実なのかを理解することなのだ。その内実とは、

自分の選択によって人が昏睡したり、死んでしまう可能性があるとしても、どちらかを選択できるか?

というものである(※)。しかもこの選択は、間接的な影響ではなく直接的な影響であり、「自分のせいではない」と言い逃れするのはほとんど不可能である。このような状況において選択を保留するのは、無理からぬ行為ではないだろうか。もっとも、こう反論する人がいるかもしれない。「それでも選ばないと先に進めないなら、選ぶしかないではないか」と。なるほどもっとも意見である。また、それは(平)慎二が作中で言っていることとも類似する(※2)。しかし、それが合理的な判断だったからという理由で、その結果を自分自身に納得させることはできるのだろうか?いや、「自分自身に納得させる」などというのは間接的な影響に過ぎない場合の話だ。直接的な影響であれば、「死んだことに責任を持てるのか?」と言うべきだろう(ここで孝之の「(見舞いに行くのは)責任…あるからな…」というセリフを思い出すのもおもしろい)。自分の選択が直接人の生死に関わったとしてもなお、「自分の気持ちに正直になった結果だからしょうがないだろ」と自分を正当化し、平気でいられるのだろうか?人間の精神はそれほど強靭でもないし便利(?)にできてもいないと私には思える(それが絶対的な真理とは言わないが、少なくとも孝之の場合はそうだろう。理由は次の段落を参照)。おそらく大半の人は、立ち尽くす(保留)か逃げ出すか(すかいてんぷる)、あるいはどうにでもなれと自棄になって突っ走るのいずれかを選ぶのではないか…そのように考えれば、作中のような選択を保留できる状況下において、重大な結果をもたらす選択を先送りにするのは至極当然のことだ。


さらにここで、一般的な問いから鳴海孝之の立場へと立ち入ってみよう。彼の立場を理解する上で重要なのは

(1)遥・水月双方に愛情を持っていること
(2)遥を昏睡させてしまったという罪悪感を抱えていること

の二つだが、先ほどの問いかけも考え合わせれば、彼が再び遥を昏睡へと追いやる可能性のある選択などできないのは火を見るより明らかだ。つまり孝之は、合理的だからとか自分の気持ちに正直になってなどといった理由で遥を危険に晒す選択などできないのだ。かと言って孝之には、水月と過ごしてきた二年間(その中で遥を失ったショックから救ってもらっている)と現在の生活がある。こう考えれば、孝之が選択を先送りにしようとするのは「ヘタレ」どころかむしろ必然的・良心的であるとわかるだろう。その意味で、作中のキャラが言うように彼は「やさしい」のである(彼は合理的・論理的という理由だけでどちらかを選ぶことができない)。しかしそれでも、遥の方に重大な事態が起こりうる以上は、「水月との関係を放棄して遥の元へ行けばいいじゃないか」という意見が出てくるかもしれない。実は孝之も、水月が遥のように重大な問題を抱えていないという認識を持っていた。それは誤りであったと後に判明するのだが、詳しくは君望のアニメ版を見てもらいたい(すでに見た人は次の記事を参照)。


結論。
「究極」の内実とは、以上のようなものであった。この前提を理解して初めて、君が望む永遠を理解する素地が生まれる(そしてここからシナリオ批判などへと繋がっていく)。逆に言えば、これを理解することなしに君望をプレイしたところで、全く表面的なものにしかならない。この前提は、本編でわかりやすく提示されている。ぜひこれを見た人には(再)プレイしてほしいと思う。


(注)

念のため書いておくが、遥が最終的に立ち直ったというのは結果論でしかない。特に最初の頃は、医師の香月ですら遥の容態が読めないほど不安定だったのだ。どうして再び昏睡しないなどと断言できようか。どのシナリオでも遥が再び意識不明になること、また「茜妊娠エンド」ではその昏睡が数年間続いていることも想起したい。

※2
その意味で、「きっちりどちらかを選ぶべき」というような彼のセリフは、合理的で説得力があるがゆえに気をつける必要がある。このセリフに流されると、その発言の後で鳴海孝之が漏らす「遥を本気で気づかってやれるのは俺だけだ」という言葉の意味・重みに気付かず通り過ぎてしまうことになるからだ。慎二は非常に好人物であると思う。しかし彼の良心的な言葉に、「自分のせいで」愛する人間を昏睡に追い込んだ自責の念で三年間を過ごした経験もなければ、それを前提とした現在の選択の苦しみも含まれてはいない(もっとも慎二自身はそのことに気付いており、それゆえ他にも言いたい様々なことを呑みこんでいる節がある)。近くにいても結局第三者である彼は、良心的であろうとするがゆえに「きっちりどちらかを選ぶべき」としか言えないのだ。

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