次の毒書会で「教養とは何か?」を考えるに先立ち、2回に渡って「いわゆる『ファスト』とそれが波及する必然性について」の覚書を掲載した。
ここからは、「手段としての教養」が広く求められるようになった歴史的背景について触れつつ、「ファスト教養」への需要が拡大している背景を考えていきたいと思う。
1.
「ファスト教養」とは、主に仕事で成功するためにのみ「教養」を求め、それがゆえに(時間的制約もあって)単純化・簡略化された「教養」を矢継ぎ早に摂取しようとするような人々のニーズに応えるためのものである。その点で言えば、「手段としての教養」の極北にあるものと表現してよい。
「ファスト教養」とは、主に仕事で成功するためにのみ「教養」を求め、それがゆえに(時間的制約もあって)単純化・簡略化された「教養」を矢継ぎ早に摂取しようとするような人々のニーズに応えるためのものである。その点で言えば、「手段としての教養」の極北にあるものと表現してよい。
2.
1のような形で「手段としての教養」を求めるメンタリティは、以前から存在していた。例えばフィッツジラルドの『グレイトギャッツビー』は20世紀前半に成り上がった人間の典型的な姿(それは西欧の没落を尻目に台頭するアメリカ社会の写し絵でもある)を描き出している。そのような形で「成金」と呼ばれるような人々が社交界にデビューしてエスタブリッシュメントたちと接するにあたり、「教養」自体に価値を置いていなくとも、それを最低限理解していることを示すために、いわば「教養を摂取する」という事例は少なからず見られたのである(さらに言えば、ある瞬間にコックニー訛りが出るなど、ちょっとした瞬間の立ち居振る舞いによってボロが出て嘲笑されたり羞恥心にとらわれる、という描写までセットになるケースも少なくない)。
1のような形で「手段としての教養」を求めるメンタリティは、以前から存在していた。例えばフィッツジラルドの『グレイトギャッツビー』は20世紀前半に成り上がった人間の典型的な姿(それは西欧の没落を尻目に台頭するアメリカ社会の写し絵でもある)を描き出している。そのような形で「成金」と呼ばれるような人々が社交界にデビューしてエスタブリッシュメントたちと接するにあたり、「教養」自体に価値を置いていなくとも、それを最低限理解していることを示すために、いわば「教養を摂取する」という事例は少なからず見られたのである(さらに言えば、ある瞬間にコックニー訛りが出るなど、ちょっとした瞬間の立ち居振る舞いによってボロが出て嘲笑されたり羞恥心にとらわれる、という描写までセットになるケースも少なくない)。
3.
このように、「手段としての教養」へのニーズ=合目的的な「教養」は近年始まったものではない。さらに、この事例から話を進めれば、階層移動が一般化して分厚い中間層が形成された結果現出した大衆化社会(cf.『大衆の反逆』)、さらにそれを準備した近代市民社会の成立の頃からすでに、「手段としての教養」とそのニーズは広がり続けていた、と言ってよいように思われる。
このように、「手段としての教養」へのニーズ=合目的的な「教養」は近年始まったものではない。さらに、この事例から話を進めれば、階層移動が一般化して分厚い中間層が形成された結果現出した大衆化社会(cf.『大衆の反逆』)、さらにそれを準備した近代市民社会の成立の頃からすでに、「手段としての教養」とそのニーズは広がり続けていた、と言ってよいように思われる。
後者の近代市民社会と「手段としての教養」がどう関連するのかについては、例えば片山杜秀『革命と戦争のクラシック音楽史』などが興味深い。そこでは、中産階級となった人々が元々は貴族たちの嗜みであったクラシック音楽の世界に入ったことにより、ハイドンやベートーヴェンの音楽に見られるように劇的な導入で手短に聴衆の心を掴む演出が練り上げられたことを指摘している。この「手短に」という点がハリウッド映画の演出は元より、今日の「ファスト映画」や「ファスト教養」にも連なる要素であることは比較的理解しやすいところではないかと思う。
4.
以上のように見てくると、「教養」的なるものを手ごろに得たいというニーズや、それに応えた表現方法・製品というものは歴史的に存在しかつ「発展」してきたわけで、「ファスト教養」も一連の流れの中に位置づけることができると考えられる。
5.
とはいえ、それなら「教養」的なものを希求する説明にはなっても、「ファスト教養」が求められる説明にはならないのではないか?という反論が出てくることが予測される。おそらくそれに対する答えは以下のようなものだ。
(A)
情報機器の発達により膨大な情報を得やすくなった。その結果として(SNSによるコミュニケーションやコンテンツの消費なども含めると)時間がいくらあっても足りなくなり、倍速視聴にも見られるように、効率化が強く求められるようになった(次から次への流れてくる情報にキャッチアップしようとするなら、人間の可処分時間が大きくは変わらない以上、自然とそうなりがちでもある)。
情報機器の発達により膨大な情報を得やすくなった。その結果として(SNSによるコミュニケーションやコンテンツの消費なども含めると)時間がいくらあっても足りなくなり、倍速視聴にも見られるように、効率化が強く求められるようになった(次から次への流れてくる情報にキャッチアップしようとするなら、人間の可処分時間が大きくは変わらない以上、自然とそうなりがちでもある)。
(B)
成熟社会化=大衆化の進展を通じた知のスーパーフラット化により、ハイカルチャーとサブカルチャーの垣根があまり意識されなくなった(大衆化自体がそもそも後者の優位につながる要因だが、その他にもクラシックとロックの融合を試みたプログレような、そもそも垣根を融解させる動きなども影響していたと考えられる)。
その結果、「教養」と呼ばれるものがしばしば属する側のハイカルチャーを深く理解する優位性を感じない人が増えた(そもそも「教養」のカテゴリーがあやふやなので、「ハイカルチャー=教養」とまで言い切るのは不正確だろう)。また、両者がフラットになったことで必要とされる知識量が膨大になった結果、さらに簡略化された情報を求めざるをえない状況にもつながっている。
以上が、「ファスト教養」(および倍速視聴)へのニーズが広がってきた背景ではないかと考える(市場はニーズに沿うものであるから、これに基づいて「ファスト教養」につながる動画が大量生産されるのは必定だろう)。ここで重要なのは、その「ファスト教養」の基盤をなす「手段としての教養」に対するニーズは歴史的に醸成されてきたものであり、そのニーズに応える技術が追い付いたために「ファスト教養」という新しく、かつ極端に見える現象が起こっている(だけ)ということだ。
よって、古代ギリシャではないが可処分時間が大幅に増えるとか(まさに「暇になる」)、あるいは「手段としての教養」に対する圧迫が減るとか、(電脳化のような?)技術的に大きな変化が生じるのでもない限り、この状況を変えるのは極めて困難だと思われる。
よって前の記事でも述べたが、「ファスト教養」やそれを摂取してよしとする人々にただ「教養」の重要性を訴えても効果は大して上がらないものと考えられる(まあごく一部の人間を翻意させることを「効果」と呼ぶのなら、その程度の影響は及ぼすことができるだろうが)。それを踏まえた上で、今の状況に掉さすことを真剣に考えるならば、どのような方策が現実的にあり得るかを模索せねばならないだろう。
そこまで述べたところで、次回は「ファスト教養」が求められる(「手段としての教養」が強く希求される)もう一つの背景、「階層移動の恐怖感」について書きたいと思う。
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