銀河英雄伝説:オーベルシュタインの最期について、別の暗殺事件から考えてみる

2024-09-29 11:31:36 | 感想など
 
 
 
 
 
 
 
 
銀河英雄伝説に個性的なキャラは多いが、その中でも異彩を放っている一人がオーベルシュタインであることは、ほぼ全員の同意を得られるのではないかと思う。
 
 
ヤン・ウェンリーにとって最大のライバル(好敵手)がラインハルトだったことは言を俟たないが、一方でその対極的存在(思想面や生き方)を考えればオーベルシュタインという答えになる・・・そう言っていいほどの大きな存在だった。
 
 
 
それにしても、こうして考察動画を見返してみると、色々なことが思い出されて大変興味深い。確か小説を初めて読んだのは高校の時だったと思うが、オーベルシュタインがラインハルトに謁見するシーンを読んで、当時は「(王朝を否定する発言から入るなんて)最初から随分と踏み込んだ話をするものだ」などと牧歌的な捉え方をしていた。
 
 
しかし、改めて見返してみると、オーベルシュタインにはそこで退いたら「敵前逃亡→軍法会議→死刑」という未来しかないわけで、わずかな望みにかけてラインハルトという虎口の中に飛び込むしか、己の目標達成はもちろん、そもそも生き残る道が存在しなかったわけだ。ならばもう腹の探り合いなどしている場合ではなく、どう見ても自身が本音を曝け出していることを明示した上で、後はラインハルトの出方を見る、という仕方でひたすら突き進むしかなかったんだなと。
 
 
ところで、オーベルシュタイン関連でよく話題に上がる事の一つとして、「最後の死が計算づくか否か」というものがあるが、これは割と簡単に答えが出せるのではないかと思う。
 
 
というのも、アンスバッハによる(最初の)ラインハルト暗殺未遂の時に、即座に彼を守るべく行動したのはキルヒアイスとオーベルシュタインの二人だけだったからだ。キルヒアイスは、ご存じのようにアンスバッハを取り押さえようとして命を落とすためそちらの印象がどうしても強いと思うが、オーベルシュタインも即座にラインハルトの目の前に立ち、身体を張ってその身を守ろうとしていたのだ(他の諸将は、一瞬とはいえ固まって動けなかった)。
 
 
この描写は、極めて多くの意味を持っている。例えば、オーベルシュタインがキルヒアイスの「特別扱い」についてラインハルトを諫めたのは、私心からくる権力闘争などではなく、純粋にラインハルト新政権を思っての行動だったことがわかる(内面描写がなくとも、ここまで明確に示されれば、そう受け取らざるをえない)。またキルヒアイスの武装解除をさせたのは、単に暗殺などのリスクを甘く見積もっていたことではないことも理解できる(でなければ、「身体検査はしたはずなのになぜ武器を…」なんて思う間もなく、主君の前に躍り出ることなどできない)。そしてこの描写があるゆえに、キルヒアイスという作中人物にも読者にも好感をもって受け入れられていた人物を間接的に死なせてしまったにもかかわらず、オーベルシュタインは「嫌いにはなっても否定しきることはできない重要な存在」として確立されたのである。
 
 
そしてこういった強烈かつ重要な意味を持つシーンを描き出した上で、第二の皇帝暗殺未遂では、自分こそがヴェスターラントを見殺しにする戦略を具申したと犯人を前に宣言させている(ただし小説版とアニメ版ではラインハルトのコミットの仕方には微妙だが重要な差異があり、ここでの発言の意味は両者で異なる)。これはハイネセンでの行動と同じく、皇帝に向かいかねないヘイトを自身に向け、むしろ皇帝・王朝へのロイヤリティを高める行動と同列に語ることができるだろう。
 
 
ことほどさように、その死にまで到る極めて統一された描写の傾向を踏まえれば、オーベルシュタインがラインハルト三回目の暗殺未遂に関し、「皇帝だけをただ囮にし、地球教を葬り去ろうとした」と解釈するのはむしろかなり無理があると言える。
 
 
確かに、オーベルシュタインは表立っては臣下が持つべき(臣下に持たせるべき)はラインハルト個人への崇拝ではなく、王朝へのロイヤリティであるという趣旨の発言をしている。しかし、前述のように最初のラインハルト暗殺未遂に際して真っ先に彼の身を守る行動を取っていることを踏まえれば、そしてそこで身体が動かなかった(そこまではできなかった)ミッターマイヤーやミュラーたちがプリンツ・アレクにも忠誠を誓う描写で終わっている以上、「王朝にこそロイヤリティを示し続けるべしと考えているなら、むしろ自分が明らかに政権中枢から除外されるリスクのある皇帝を囮にした作戦などありえない」と考えるのが自然だろう(加えて言えば、臣下が皇帝の身を危険にさらしても許されるような前例を作れば、それこそ将来的に王朝の屋台骨を揺るがしかねない。またヒルダやプリンツ・アレクとそりが合わない未来を予見していたというのであれば、単に引退すればよいだけの話であって、「自分が活躍できない未来=死を選択する」というのは、自分を犠牲にした囮作戦を立案するよりも遥かに意味不明な行動と言える。というのも、差別的待遇に苦しんだ彼の熱望した社会がローエングラム朝では概ね達成されているのだから、そこで生きていけばよいからに他ならない)。
 
 
というわけで、「オーベルシュタインは皇帝を囮にする作戦を立案したが、真に皇帝の身を危険に晒す意図はなく、自分がその身代わりになるのは既定路線だった」と考えるのが最も自然だ。そしてその爆破行為が自分に深刻なダメージを負わせるならそれは殉死的行為となるし、仮にそこまでの深刻な被害を受けなくとも、「皇帝を危険に晒した奸臣」として政治の表舞台から去ることになるだろう(どちらにせよ、おびき出された地球教徒たちは殲滅されるのだが)。
 
 
これまでの描写、すなわちオーベルシュタインには第一の暗殺未遂、すなわちラインハルトが皇帝となる前の時点から、彼のために命を投げ出す覚悟があったことなどを踏まえると、いちいち理屈をこねくり回さなくても、今述べた結論に到るように思える。しかしそれにもかかわらずなぜこれが「問題」とされてきたのかと言えば、本編においてどっちともとれるように勿体ぶった説明(地の文・ナレーション)がなされているため、というのが実情ではないだろうか。
 
 
なぜ、彼の最期についてこのような持って回った描写をしたのだろうか?思うにそれは、オーベルシュタインを、消極的にではあっても、「殉死」を選ぶような描き方をすれば、キャラクター的にブレると考えたからではないだろうか(まだビッテンフェルトとかの方がやりそうだwとはいえ彼も、「俺は死ぬより生きて敵を倒す方が亡き主君の恩によほど報いることができるのだ!」なんてカラッと言いそうだがw)。
 
 
真意を明かすでもなく、誇るでもなく、「ドライアイスの剣」と呼ばれた男が、実は誰よりも強烈なラインハルト自身への忠誠(≠妄信)に突き動かされていたのかもしれない、と周囲にも読者にも思わせるような終焉の迎え方こそが相応しい…そう作者が考えたのではないかと私には思われる。
 
 
少し飛躍した物言いをすれば、「過剰に論理的な人間がそうである理由が、必ずしも論理的であるとは限らない」といった表現になるが、オーベルシュタインがどこまで意識的だったかはともかくとして、ラインハルト亡き後には「消極的な殉死」or「表舞台からの引退」という心情が先にあり、「(王朝の存続こそ是と考えるならば)非合理的な感情の発露に合理性を持たせるために、あえて暗殺行為が起こるよう仕向けて敵勢力を壊滅する作戦を立てた」という具合に、通常想定するのとは真逆の順序で皇帝を囮とする作戦を考案したのではないかとすら思うのである。
 
 

なお、これは別件になるが、オーベルシュタインについては、キルヒアイスの死をラインハルトに納得させるため、リヒテンラーデが黒幕であるというカバーストリーをでっち上げ、ラインハルトの復活と敵勢力への専制・壊滅という作戦を提示したという「実績」がある。この「巨悪でないと困る」というのは、単に作劇上の都合に限らず、「信長革命児説」であったり、「本能寺の変黒幕説」など、実は物事に対する想像力がこういったバイアスに歪められているケースは少なくない。

 

言い換えれば、シェイクスピア『オセロー』における主人公の性質三国志演義忠臣蔵の勧善懲悪的構造などフィクションの世界でしばしば行われるキャラ付けやコントラストの演出は、現実における陰謀論や英雄譚の普及からもわかるように、実社会でもしばしば見られる現象なのである(まあその一つの極北が宗教やイデオロギーなわけだが)。そしてその思考様式の土台を考えるなら、福田恆存『人間、この劇的なるもの』であったり、先日も述べた認知的不協和を想起するのが有益であるが、さすがにその話を進めていくには大幅に紙幅を費やしてしまった。

 

というわけで、この話題は次回へと持ち越すこととしたい。

 

以上。


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