AIの「進化」と人間の「劣化」という問題系を考えていると、認知科学はもちろん、(以前『野生の思考』やピダハンにも言及したように)人類学も極めて重要な分野だと最近思うようになったが、その観点でこれらの動画は大変興味深い内容だった(後者については、イーガンの『順列都市』の話を懐かしく思い出した)。
二つの動画に共通するのは、動物内での人間の特性は、膨大な情報とそれへの対応力であると言い換えられそうだが、それは「試行錯誤する力と新たな知見への高い適応力」とも表現できるのではないか。
仮にこの見立てが正しいのならば、昨今AIのアナリティクスが発達し、こちらの求めるものが次々と先回りして提示され、言わば「箱庭」に囲い込まれるような状況は、便利さ・快適さの向上には寄与しているものの、それに飼い慣らされることはまさしく人間性の剥奪に他ならないのではないか、と思う。
とはいえ、こう訴えてみたところで、社会の大きな趨勢を可逆的なものにするのは、極めて困難だろう。
というのも、AIの性能が日夜向上してさらに我々の快楽原則をより効果的に刺激し続けるのに対し、現実は多様な人間の存在を認めるべしとする成熟社会であり、他者=生ける人間と対峙し、(先日イラン社会の教育法に見られる背景=スキーマについて説明したが)その言行の背景を理解したり、価値観が合わずともすり合わせしながら共生を図っていくことはますます困難になっていくと考えられるからだ。
だとすれば、より多くの人がノイズだらけの他者との関係性を縮小していき、快適なものを垂れ流し続ける奴隷へと志願する(言い換えれば「自由からの逃走」)のは、何ら驚くべきことではないと、私には思えるのである。
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