日本にいると「ゴッホ展」や「ムンク展」といった形でしか作品をみることが難しいため、似たような題材を描いた作品を実見して比較対象する機会というのはなかなかない(以前取り上げたので言えば、「Becoming Munch」の話が関連する)。
しかし、こういった場所では様々な芸術家のまとまった作品を目にすることができるため、そういう点でもアルテ・ピナコテークの見学は私にとって僥倖であった。
というわけでいくつか例を挙げていくと、
こちらはフィリッポ=リッピ。ダヴィンチにも影響を与えたプレルネサンスの重要な芸術家の一人だ。彼は神父だったが、相当に破天荒な人物であり、最終的には修道女と駆け落ちしたという来歴を持つが、彼の聖母のモデルはその修道女(妻)と言われており、一人の芸術かの愛情が聖母子像という形で昇華された例としても興味深い。
こちらはその影響を受けたダヴィンチ。モナリザなどと比べると「保守的」な印象を受けるかもしれないが、肉体の可動部に対する精密な描写、あるいは服のしわを描くための陰影などは明らかに中世のそれとは隔絶したものとなっている。
で、こちらはダヴィンチの後半生と重なるラファエロの聖母子像。ダヴィンチと比較して感じられるのは「柔らかさ」だろう。ちなみに、「柔らかい」だと非常に抽象的なので対比するために別の題材を提示すると、
同時代ではこのホルバインなどが非常に対照的なものとしてわかりやすい(ホルバインの作品はアウクスブルクのバロック美術館にかなりの数展示されている)。まあ「ピエタなんだから柔らかくはならんやろ」という突っ込みはあるだろうが、それにしても色使いや服の塗りなど平面的で距離感のある印象を受けるだろう。
さて、「柔らかさ」でいうとルーベンスの絵も確かに「柔らかい」が、こちらは「肉々しい」感じ(何じゃそりゃ)である。つまり、これでもかと柔らかな肉体を見せつけることで、それを誇示・称揚する意図を強く印象付けられる、ということだ。
ラファエロの聖母子像は日本で特に人気があると聞くが(何かデータを見たわけではないのであくまで伝聞情報)、あるいはこの柔らかさが(神秘さと同時に)親しみやすさを強め、それがキリスト教にもあまり馴染みのない日本人をも惹きつける要因となっているのかもしれない(その意味で「柔和さ」と表現できるが、一方でルーベンスの「柔らかさ」は「肉体美」に近い)。
こうなってくると、そもそも「人はなぜ美しさがわかるのか?」という大きなテーマも思い起こされる・・・なんていうと抽象的・衒学的な印象を受けるかもしれないが、これは例えば「快・不快」についての生理的反応を考えれば割と身近な話だ(そういう生理的・直感的な反応で全てが説明できるかは不明だが)。というのも、「なぜハスコラを不快に思う人が少なくないのか」といったことは興味深いテーマだし、あるいは「快・不快」のライン把握はマックの席や空調に限らず、空間設計や都市設計にも大いに役立つことだろう。要は、単に「個人の趣味」レベルに限らず、アーキテクチャーといった大きなレイヤーの話にもこういった探求はつながりうる、ということである。
などなど思考は広がっていくが、時間も限られているので別の作品にも目を向けていくことにしよう。
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