2010/10/3
[「果てしなく青い、この空の下で」という作品が]単なる「ホラー」でも「癒し系」でもなく鮮烈な印象を残すのは、その「どうしようもなさ」にある。そのことを理解できる人間がどれだけいるか。ただかわいそうにと同情するか、「自力で立ち回るなんて頭が悪い」とか「もっとこうすればいいのに」と問題点をあげつらって嘲笑する[論理至上主義的]かの両極端?その状況が抱える困難さを考えてるのか?「神の罰」の背景への無理解、君が望む永遠、終末への無理解。現世利益的思考は、超越的存在も自分の利益のために存在するという都合のよい思考となりがち。勘違いしないでほしいが、私は全てが運命付けられてるとか、自由意志など無意味(幻想)と言ってるのではない。人間の自由意志を全面的な、あるいは所与のものとして語るのもまた宗教。認知科学のカウンター。遺伝子で全て決定は極端、新自由主義、自己責任の限界・問題点の認識は必須。偶然性意識なければネタは必ずベタに[スポーツマンシップで言えば、Step3にいるうちにStep1が自明のものとして埋没するようになる状況]。
<青空、闘わずして・・・レッシグ>
ひぐらしが何を書かなかったか、何を強調したかったかを知る格好の材料。青空は人間の闘いと敗北を描く→救いなし・どうしようもなさ→ヤマノカミが解決=ご都合主義?「難題解決の処方箋ならわかるが、救いのなさを描く意図はあるのか?」という批判・疑問は一面的すぎ。人間の限界=端的な事実、また異形の両犠牲・超越性も描いた上でその力を借りる奔走[ヒロインが失踪・死亡するバッドエンドでも、ハッピーエンドとほぼ同様に異形の力は働いている]。むしろ「やる気にさえなればなんとかなる」、「信じれば叶う」的な定型化された救いこそ欺瞞。断念なき麻薬中毒、ただの中二病wではひぐらしは?スタッフルームのコメント=殺人を防ぐ・相談の大切さetc→処方箋を提示したい。掲示板からゲーム内への巻き込み。単なる解答編(=傍観者に)しない。「惨劇に挑め」。祭囃し編=カケラ紡ぎ=インタラクティブ性=理想の世界を自分で構築させる(と同時に真相も見せる)。間も悪くて突っ込まれるだけの魅音と小此木の対決をわざわざ書いた理由。戦闘力の問題[たとえば圭一が鉄平に挑む深刻さ↓]残るが、意図は理解できる。
<青空、ラストキャバレー>
ひぐらし考える上でとても参考になる。皆殺し編との対比。開発=居場所を破壊する者たち→青空は道路とモナド的対抗、ひぐらしはダムと団結。青空ヤマノカミ解決。「ゼウスインマキナ的ご都合」という批判。批判の前提は・・・処方箋になってない→ひぐらし、オウム事件の記憶、アジール。物語として→超越呼び出される必然性。闘いと敗北…先生や神主、バラバラになる友人たち。どうしようもなさ。両義的な異形=人の手を超える存在→いかにその力を借りるかという苦闘=ただの「超越性の呼び出し」との批判当たらず。そもそも「突然力が得られて」みたいなヌルいものが満ち溢れる世界で何をいうかね。雨音が雪景色の中に立つ場面想起。冬の空気に似た清冽さ・苛烈さ。救われるかどうかわからない=偶然性の中で、あるいはそれゆえにこそ救われんとして苦闘する。
<フラグメント>
僕らはみんな生きている~♪生きているからつらいんだ。同生きているから殺すんだ。けつの穴太陽にすかしてみれば~真っ赤に噴き出す僕の血潮。ミミズだって~、アワビだって~、カズノコだって~みんなみんな生きているんだ友達なんだ~。14歳、鉄筋コン、明日君がいない、灰羽連盟、ある朝スウプは、父親たちの星条旗、硫黄島からの手紙、奇妙なサーカス、
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