色々な人間とセックスすることや強姦魔を指して「動物的だ」とか「ケダモノ」などと言ったりするが、よく考えてみるとあれは奇妙だ。というのも、「動物的」とか「ケダモノ」と形容される性行為においては、「生殖」という目的意識が欠落しているからである。
空前絶後とまで言うつもりはないが、子供を産んでもらうために強姦した人間の話など聞いたことがないし、妊娠するために複数の人間とセックスしたりスワッピングを行ったということも絶えて聞かない。いやそれどころか、もし仮に妊娠するために(つまり生殖という目的意識を持って)色々な人間とセックスしているという人間がいるとすれば、少なくともその人が「動物的」「ケダモノ」と言われることはないだろう(変な目では見られるだろうが)。また同じ人間と夜どうしヤっていれば、それも「獣のようなセックス」などと言われるかもしれないが、もしそれが「子供が長い間できないからどうしても作りたくて」という意識のもとに行われていると判明したら、十中八苦それは「動物的」とは呼ばれないだろう(そういう意識でヤりまくる人間もほとんど皆無だろうが、ここは「動物的」という基準の虚構性を浮き彫りにすることが目的なのでご了承いただきたい)。
これは何とも奇妙なことだ。なぜなら、性行為には必然的に伴うはずの生殖という目的が確認されると、むしろ「動物的」とは見なされなくなるからだ。性行為において、自然界では生殖が第一義的な意味を持つ。いや、ほとんど唯一の意味・目的と言っていいだろう。ならばなぜ、(生殖を目的としない)フリーセックスをしている人間だとか強姦魔を「動物的」「ケダモノ」と形容し、いっぽうでその第一義的な目的が存在する性行為は(たとえフリーセックス的なものであろうと)そうしないのだろうか?これを言い換えれば、快楽を追求している時こそ、「動物的」「ケダモノ」と評されるのである。しかし(私の知る限りで)自然界における生殖の意味合いや動物の行動様式からすれば、そういった行為は例外的なものであり、ゆえにそれをこそ「人間的」と呼ぶべきではないだろうか(良い意味で使っていない。念のため)。
ではなぜ、そういった極めて「人間的な」行為が「動物的」と考えられるようになったのか。そこには性行為に対する強い罪悪感・羞恥心が存在していると思われる。ゆえにそういった社会通念を逸脱した存在は、「動物的」として排除される仕組みになっているのだろう(実態と真逆の、しかも負のイメージを被せられた動物はいい迷惑だが)。このように、セックスに関しての「動物的」という概念は、性行為に対する歪な視点の申し子と言えるだろう(今の私にはこれ以上まとまった見解を提示することはできないが、そういった視点が西欧近代の性モラルのあり方に端を発しているとする見解が有力らしいとだけ書いておきたい)。
※その意味では、露出趣味、同性愛、近親相姦なども極めて「人間的」と言えるだろう。過去ログ「近親相姦について考える」「同性愛について考える」「理解されなかった問い」も参照。また記事の内容が岸田秀『性的唯幻論序説』の影響をかなり受けていることを述べておく。
空前絶後とまで言うつもりはないが、子供を産んでもらうために強姦した人間の話など聞いたことがないし、妊娠するために複数の人間とセックスしたりスワッピングを行ったということも絶えて聞かない。いやそれどころか、もし仮に妊娠するために(つまり生殖という目的意識を持って)色々な人間とセックスしているという人間がいるとすれば、少なくともその人が「動物的」「ケダモノ」と言われることはないだろう(変な目では見られるだろうが)。また同じ人間と夜どうしヤっていれば、それも「獣のようなセックス」などと言われるかもしれないが、もしそれが「子供が長い間できないからどうしても作りたくて」という意識のもとに行われていると判明したら、十中八苦それは「動物的」とは呼ばれないだろう(そういう意識でヤりまくる人間もほとんど皆無だろうが、ここは「動物的」という基準の虚構性を浮き彫りにすることが目的なのでご了承いただきたい)。
これは何とも奇妙なことだ。なぜなら、性行為には必然的に伴うはずの生殖という目的が確認されると、むしろ「動物的」とは見なされなくなるからだ。性行為において、自然界では生殖が第一義的な意味を持つ。いや、ほとんど唯一の意味・目的と言っていいだろう。ならばなぜ、(生殖を目的としない)フリーセックスをしている人間だとか強姦魔を「動物的」「ケダモノ」と形容し、いっぽうでその第一義的な目的が存在する性行為は(たとえフリーセックス的なものであろうと)そうしないのだろうか?これを言い換えれば、快楽を追求している時こそ、「動物的」「ケダモノ」と評されるのである。しかし(私の知る限りで)自然界における生殖の意味合いや動物の行動様式からすれば、そういった行為は例外的なものであり、ゆえにそれをこそ「人間的」と呼ぶべきではないだろうか(良い意味で使っていない。念のため)。
ではなぜ、そういった極めて「人間的な」行為が「動物的」と考えられるようになったのか。そこには性行為に対する強い罪悪感・羞恥心が存在していると思われる。ゆえにそういった社会通念を逸脱した存在は、「動物的」として排除される仕組みになっているのだろう(実態と真逆の、しかも負のイメージを被せられた動物はいい迷惑だが)。このように、セックスに関しての「動物的」という概念は、性行為に対する歪な視点の申し子と言えるだろう(今の私にはこれ以上まとまった見解を提示することはできないが、そういった視点が西欧近代の性モラルのあり方に端を発しているとする見解が有力らしいとだけ書いておきたい)。
※その意味では、露出趣味、同性愛、近親相姦なども極めて「人間的」と言えるだろう。過去ログ「近親相姦について考える」「同性愛について考える」「理解されなかった問い」も参照。また記事の内容が岸田秀『性的唯幻論序説』の影響をかなり受けていることを述べておく。
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