君が望む永遠~サブキャラシナリオへの評価をめぐって~

2009-06-21 17:06:47 | 君が望む永遠
(はじめに)
最近、鳴海孝之の評価について「孝之が「ヘタレ」と評価される要因」、「「感情移入」の問題に向けて」、「なぜ「感情移入できない」のか~」、「真版 なぜ「感情移入できない」のか~」などを書いてきた。今回は、表題にあるようにサブキャラシナリオの評価・位置づけに言及し、この問題に一応の決着をつけることとしたい。なお、私がプレイしたのは原作とDVD specificationのみで、Latest Editionは未プレイであることをお断りしておく。


(本文)
さて、前掲の記事を読んできた方の反応としては、主に二つのものが想定される。すなわち、

1.
要は、孝之が「選べない人間」なんだと割り切って見ればいいんでしょ?
(ある意味、「選べない」ことを「仕様」として捉える)

2.
メインの説明は一回性・選択不可能性で理解できるとしても、サブキャラシナリオはどうなる?あれこそ「白紙の主人公」の最たるもので、矛盾するような要素を入れたことに問題があるのではないか?

というものである(一応言っておくと両者は併存可能)。今回は、そのような認識・疑問を念頭に置きつつ議論を展開していくが、よりよく私の主張を理解してもらうために、いきなり結論から入るのではなく、私のサブキャラシナリオに対する眼差しがどのように変化していったか、という視点で書いていくことにしたい。


<初期>   サブキャラシナリオ=メインを台無しにするもの
蛍シナリオの問題点」、「穂村シナリオ斬り」などに見られるように、サブキャラシナリオとは、それ自体の質に問題を抱えているだけでなく、孝之の行動原理を破綻させメインでの行動の理解の妨げになるという点で、メインシナリオの構成力、演技力、心理描写を台無しにしかねない害悪だと認識していた(それらは、「-40点」を構成する主要素だった)。ちなみに当時の私は、そのようなシナリオになってしまった要因として次のように考えていた。すなわち、「メインシナリオだけだと雰囲気的に重いだけでなく選択の幅も少ないため、プレイヤーを選んでしまう。ゆえに、そういうのを嫌がる人のためにサブキャラシナリオを用意したのだろう」と。要するに、サブキャラシナリオとはそもそも物語的な必然性を欠いた接ぎ木でしかなく、それゆえあのような脈絡のない展開になってしまったのだろう、と見ていたわけである。とはいえ、当時すでに「スケープゴートとしての文緒エンド」を書いていたように、事はそう単純ではなかった…


<中期>    「選べない」ことからの逃げ道→確信犯的、懲罰的 
「中期」とは、簡単に言えば模索の時期であった。この期間に何を考えていたかはすでに「君が望むサバイバーズ・ギルト」、「「ヘタレ」に関する受容分析へ」、「レビュー回顧~「ヘタレ」への怒りから~」などで述べているので詳しくは繰り返さない。ただ、この時期の文体に対話篇を採用していること、「穂村シナリオの「情念」」と「サブキャラシナリオの害悪」の間で一年以上が経過していることなどに端的に表れている、とだけ言っておこう(なお、対話篇を採用したのは伊達でも酔狂でもなく、私が問題と考えているものを読者にわかりやすく提示した上で、論を展開するためであった。これは、過去ログを見返している時に「いったいこの記事は何にそんなに苛立っているのだろう?」と自分自身が思うことさえあったという事情が関係している)。……いささか前置きが長くなったが本題に入ろう。このような時期に書かれた代表的なものが「主人公とプレイヤーの共犯関係」、「主人公の評価と「選べない」苛立ち」、「確信犯的選択と懲罰」であるが、以下それらを簡単にまとめておきたい。

今までサブキャラシナリオは物語的必然性に欠けており出来が悪いと評価していたが、よくよく考えてみればサブキャラシナリオの出来が悪いとだけ言うのはおかしいのではないか?というのも、蛍シナリオで彼女の誘いに乗る選択肢や穂村シナリオの選択肢に象徴的なように、明らかにおかしいとわかる選択肢が混入されており、(ここを忘れてほしくないのだが)メインシナリオを見続けたプレイヤーがその突飛さ・奇妙さに気付かなかったとは考えにくい。それにもかかわらず選んだのであれば、その先に奇妙な展開が待っていることは容易に予測できたはずだし、また(半ば)確信犯的に物語の本筋を無視してもいるわけである。

別の言い方をすれば、孝之を「ヘタレ」と評価する一方で(これはその大部分が遥と水月のどっちかをきちんと選べという苛立ちに基づいていると推測される)、サブキャラシナリオを選択(=二人とも放置)したこと自体はまだしも、その事実を忘却してサブキャラシナリオを批判だけするというのはいかなる精神性に基づいているのか(実際、サブキャラシナリオが全体の中でどのような役割を担っているのか、といった批評的な視点のレビューは見たことがない)?このような疑問の形をとった反論・非難に対し、おそらく彼らは次のように言うだろう。すなわち「選択の幅が売りの恋愛ADVでいろいろなキャラを攻略しようとして何が悪い」と。その意見は、恋愛ADVに見られる選択可能性(色々なキャラを選べる)、さらに言えば「白紙の主人公」といった枠組みが絶対的な真理であるのなら全くのところ正しいものであろう。しかし、言うまでもないことだが、そんなものは一つの形式に過ぎないのである。もちろん、というか残念ながら、前述のような「選択の~」という意見は一度も見たことがない。ましてや、選択肢の意味合いのような記事はなおさらである。ここで問題なのは、そのような感想すらも出てこない、つまりはそれほどにレビュワーたちが恋愛ADVの選択可能性という単なる一形式を自明のもの(=真理)として受け止めているらしいことに他ならない(念のため言っておくが、一本道のゲームの場合は「仕様」として認識される)。

このようにして、君望レビュワーたちの書く「ヘタレ」「感情移入」といった評価に対する不信感を一層強めるとともに、プレイヤーの独善性がまた別の形で見えてきたのだった(独善性など誰でも持ち合わせているが、それにあまりに無自覚なのは度し難いことだ)。読み返してもらえればわかるように、元々対話篇はその後にサバイバーズ・ギルトという視点で書く準備を整えるためのサブ的なものでしかなかった。しかし、対話篇の中で扱った諸問題とその考察は、むしろ受容分析のために必要な材料をこそ提供してくれたと言える。そしてこれが、<後期>の始まりにあたる「孝之が「ヘタレ」と評価される要因」において、鳴海孝之を縛るもの、すなわち人生の一回性(=反復不可能性)、及びそれにより生じる選択不可能性を論ずることに繋がったのである。

問題はそれだけではない。先ほども述べたように明らかにおかしな選択肢が組み込まれているということは、製作者側は確信犯的にそのようなシナリオを用意したのではないか?とすればサブキャラシナリオの質の悪さをそのままベタ(ストレート)に評価してしまってよいのか?そのように視点が変化し始めた。それが<後期>における「サブキャラシナリオの批判性」へと繋がっていくわけである。


さて、今回はもうかなりの分量になってしまったので「サブキャラシナリオの批判性」の前提部分のみを提示するにとどめ、中身については次回改めて書くこととしたい。

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