宗教と科学的思考の話を何度か書いているので、折角だしこの動画も紹介しておきたい。
古典力学と聞けば私たちは純粋科学の話だと受け取るが、一方で「ラプラースの悪魔」と聞くと、何やら厨二病感満載で笑えて来るのは不思議なことだ。とはいえこの文言は、むしろその極端な響きゆえに、宗教と科学が水と油のように見えて、実は体系化の欲望の発露である点で類似の存在であることをよく表しているとは言えまいか。
そう考えてみた時に、そもそも中世ヨーロッパにおける探究者たちは、ウィリアム・オッカムやロジャー・ベーコン、マイスター・エックハルトなど、キリスト教徒であるのは時代上まあ当然としても、さらにフランチェスコ会士やら司教代理まで務めるような人物であった。これはそもそもラテン語を読める人間が限られており、聖書を読める必要のある聖職者が学術的なものにアクセスできる数少ない集団の一つだったという事情にもよるのだが、ともあれ宗教も科学も世界探究の手法という点で対照的どころか類似の存在だったことには注意が必要だろう(逆に言えば、そういう背景なき探究は、日常や戦争などでの利便性、つまり道具主義的な性質から脱することができないのかもしれない)。
ちなみに人間というものは、前述のごとき極端な一般化に対してはその異常性に容易すく気付いて距離を取ったり嘲笑したりするが、自身がそういう過剰一般化や無根拠な理由付けをしていることに関しては、存外無頓着なものである・・・というのが小4の時の話を書いた「宗教と思索」だったりする(・∀・)
まあ災害や疫病を「神罰」とみなす思考にみられる「因果応報」的理解は素朴な実感信仰としてはわかりやすいんだけど、実際には司馬遷が「天道是か非か」と喝破したように、広く世界を観察してみれば、「人間万事塞翁が馬」的な現象はしばしば見られるものなんだよなあ(という具合に体系的理解とその欲望はしばしば現実に裏切られるから、「一切皆苦」のような感覚が生まれるわけだが)。
「宗教と思索」の話をしたついでに書いておくと、小学時代の話を宗教(的世界理解)への懐疑だとすれば、中学時代の「嘲笑の淵源」は人間性(≒理性)への懐疑であり、高校時代の「私を縛る『私』という名の檻」は自己への懐疑(「本当の自分」の破砕や自己の世界観の無根拠さの認識)とも表現できる。
まあその結果として、強い体系化の欲望と(穏健な?)懐疑主義を並行して持つことになった成れの果てが、この記事の山なんですがね( 。∀ ゜)
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