前回、鬼隠し編(以降「鬼編」と略す。他編も同様)や綿流し編(≒目明し編)で友情がむしろ余計な惨劇を生み出してきたことを述べ、それゆえに解答編、特に皆殺し編の圭一のセリフなどが際立つといったことを指摘した。ここで祟殺し編の構造を思い起こしてみると、あれも沙都子を巡る友情・仲間という問題が本質にあり、鬼編や綿編と同様最後には友情がカタストロフ(圭一曰く「狂った世界」)へと繋がっていくのであった(※)。そう考えたとき、友情がむしろ惨劇を招く問題編(鬼~祟編)と、友情によって惨劇を打破していく解答編(罪~祭編)が鮮やかなコントラストをなしていることが理解される(※2)。
このような前提に立つと、私が以前書いた鬼編ラストへの批判もまた違った意味合いを持つようになる。つまり、鬼編ラストが魅音やレナのパーソナリティから言って必然性を欠くという見解は今も変わらないが、「友情が生み出す惨劇」という捉え方をした時、圭一への友情が魅音やレナの合理的な判断を奪ってしまったのだとして演出・テーマに一定の評価を与えるのが可能になるのだ(※3)。その意味では、鬼編ラストへの疑問の提示は作品の方向性にむしろ合致したものであったと言える。
さて、「仲間を信頼しろ」という主張が問題編での疑心暗鬼を前提にしていることは誰の目にも明らかであり、そこから解答編を見ると、仲間は「やっぱり」信頼すべきものであって、疑うことが間違いなのだという結論になりがちである。しかし実際には、友情が合理的な判断をくもらせ、その結果いくつもの惨劇を生み出してきたのだという言わば「友情のマイナス面」もしっかりと描写されていることに注意する必要がある。この描写によって初めて、くり返すが「信じるっていうのは…賭けろってことだ」という圭一のセリフが真の重みを持つのではないだろうか(※4)。
ただそういう話の構造を考えるにつけ、疑う行為を雛身沢症候群として異常・狂気の側に置いてしまったことが残念でならない(私は疑うことに関してこのように考えている)。というのも、これによって信じることこそが正常だったという結論になり、登場人物たちの濃密なやり取りがフラットになるだけでなく、今まで営々と積み重ねられてきたひぐらしの真相に対するプレイヤーの探求・考察をも結果として軽んずることになってしまったからである(これについては次の記事も参照のこと)。もしこの症候群、あるいは仲間と信頼の問題をもっと説得力のある形で提示することができていたら、この作品に対する(世間も含めての)評価は大きく変わっていただろうに……そう思うと、残念でならない。
結論。
症候群や団結イベントなどによって「仲間は信じるべき」という点のみがクローズアップされがちなひぐらしであるが、そこには問題編の「友情が生み出す惨劇」という前提が存在していたことに注意する必要がある。もしこの構造を念頭に置かなければ、「仲間を信じるべき」という主張の評価は(否定的なものであれ肯定的なものであれ)一面的なものとなってしまうだろう。
ただし、この考察をもってひぐらしの「仲間を信じるべき」という主張が否定の余地のないほどよく出来たものだと言うつもりはない。ただ、その主張が友情・信頼のマイナス面も前提にした上でのものだったことを意識する必要がある、というだけのことだ(作者の主張に対する姿勢は「批評の批評」及びこの記事を参照)。上の内容からその意図は明らかだと思うが、あえて付け加えておく。
※
沙都子のことでは及び腰になる魅音、沙都子の「にーにー」を自負して鉄平殺害へと走る圭一…もしこれが安っぽいヒロイズム、あるいは理想主義だけで構成されていたなら唾棄すべきものにしかならなかっただろう。しかし、沙都子の暴走というひぐらしの中でも屈指の演出などを通して、その問いかけは目をそらすことのできない重みを持ったと言える。何もできず唇を噛んで涙を流す魅音、レナの言う「無力」、圭一の叫び…あれほど濃密で奥の深い描写を私は数えるほどにしか知らない。
※2
この前提なしに解答編の「友情」とか「仲間」に関する言説を(特に肯定的に)捉えたなら、何の意味もないどころか有害ですらある。
※3
もっとも、当時は推理という要素が深く絡んでおり、その演出を手放しで評価することはできない。また、この友情の問題が最初から計算づくだったのかも不明である。
※4
この部分を考慮に入れていないという点で、ひぐらしの仲間について批判した私の以前の記事は妥当性を欠くと言わざるをえない。
(余談)
画像に関して。本来的には問題編のTheme of OwnerやFascismを使うべきところだが、今は問題編がインストされておらずメンドくさい(ぉ)ので「祝祭」で代用。画像の著作権は言うまでもなく7th Expansionに属します。
このような前提に立つと、私が以前書いた鬼編ラストへの批判もまた違った意味合いを持つようになる。つまり、鬼編ラストが魅音やレナのパーソナリティから言って必然性を欠くという見解は今も変わらないが、「友情が生み出す惨劇」という捉え方をした時、圭一への友情が魅音やレナの合理的な判断を奪ってしまったのだとして演出・テーマに一定の評価を与えるのが可能になるのだ(※3)。その意味では、鬼編ラストへの疑問の提示は作品の方向性にむしろ合致したものであったと言える。
さて、「仲間を信頼しろ」という主張が問題編での疑心暗鬼を前提にしていることは誰の目にも明らかであり、そこから解答編を見ると、仲間は「やっぱり」信頼すべきものであって、疑うことが間違いなのだという結論になりがちである。しかし実際には、友情が合理的な判断をくもらせ、その結果いくつもの惨劇を生み出してきたのだという言わば「友情のマイナス面」もしっかりと描写されていることに注意する必要がある。この描写によって初めて、くり返すが「信じるっていうのは…賭けろってことだ」という圭一のセリフが真の重みを持つのではないだろうか(※4)。
ただそういう話の構造を考えるにつけ、疑う行為を雛身沢症候群として異常・狂気の側に置いてしまったことが残念でならない(私は疑うことに関してこのように考えている)。というのも、これによって信じることこそが正常だったという結論になり、登場人物たちの濃密なやり取りがフラットになるだけでなく、今まで営々と積み重ねられてきたひぐらしの真相に対するプレイヤーの探求・考察をも結果として軽んずることになってしまったからである(これについては次の記事も参照のこと)。もしこの症候群、あるいは仲間と信頼の問題をもっと説得力のある形で提示することができていたら、この作品に対する(世間も含めての)評価は大きく変わっていただろうに……そう思うと、残念でならない。
結論。
症候群や団結イベントなどによって「仲間は信じるべき」という点のみがクローズアップされがちなひぐらしであるが、そこには問題編の「友情が生み出す惨劇」という前提が存在していたことに注意する必要がある。もしこの構造を念頭に置かなければ、「仲間を信じるべき」という主張の評価は(否定的なものであれ肯定的なものであれ)一面的なものとなってしまうだろう。
ただし、この考察をもってひぐらしの「仲間を信じるべき」という主張が否定の余地のないほどよく出来たものだと言うつもりはない。ただ、その主張が友情・信頼のマイナス面も前提にした上でのものだったことを意識する必要がある、というだけのことだ(作者の主張に対する姿勢は「批評の批評」及びこの記事を参照)。上の内容からその意図は明らかだと思うが、あえて付け加えておく。
※
沙都子のことでは及び腰になる魅音、沙都子の「にーにー」を自負して鉄平殺害へと走る圭一…もしこれが安っぽいヒロイズム、あるいは理想主義だけで構成されていたなら唾棄すべきものにしかならなかっただろう。しかし、沙都子の暴走というひぐらしの中でも屈指の演出などを通して、その問いかけは目をそらすことのできない重みを持ったと言える。何もできず唇を噛んで涙を流す魅音、レナの言う「無力」、圭一の叫び…あれほど濃密で奥の深い描写を私は数えるほどにしか知らない。
※2
この前提なしに解答編の「友情」とか「仲間」に関する言説を(特に肯定的に)捉えたなら、何の意味もないどころか有害ですらある。
※3
もっとも、当時は推理という要素が深く絡んでおり、その演出を手放しで評価することはできない。また、この友情の問題が最初から計算づくだったのかも不明である。
※4
この部分を考慮に入れていないという点で、ひぐらしの仲間について批判した私の以前の記事は妥当性を欠くと言わざるをえない。
(余談)
画像に関して。本来的には問題編のTheme of OwnerやFascismを使うべきところだが、今は問題編がインストされておらずメンドくさい(ぉ)ので「祝祭」で代用。画像の著作権は言うまでもなく7th Expansionに属します。
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