馬部隆弘 『椿井文書-日本最大級の偽文書』:偽史や陰謀論が流通する背景とは?

2020-08-27 12:04:00 | 本関係
本書は、元々戦国期の毛利氏や細川政権の研究者である馬部隆弘が、もう一つのライフワークとして行っていた、江戸後期に作成(捏造)された椿井文書の特徴・背景・世間での受容などを論じた集大成となっている。
 
 
単にその特徴や流通範囲、どのような意図で作成されたか(情報としてどのようなタイプの偽造が行われているか)を指摘するだけでなく、それが作成された動機(町の主導権争い、国家神道における式内社設定の必要性、町おこしという目的など)にも踏み込んでいる(もちろんここから「創られた伝統」などを想起する方も多いだろう)。さらには、偽文書と看破した人は作成された当時にもいたし、また戦前にも京都(京大)周辺では偽文書との情報が共有されていたが、それが戦後において継承されず、正当な史料として受容されてしまった背景(戦前の歴史学的業績への軽視、分野の細分化による専門化・タテ割り化など)を示すなど、構造的問題まで説明しており、包括的で説得的な内容になっていると言えるだろう。
 
 
このことが、本書の価値を極めて高いものにしていると私は考える。というのも、陰謀論や疑似科学が日々垂れ流され、あまつさえ学校教育に取り込まれさえする今日、それがどのように生み出されるのか、そしてそれがなぜ人心を掴むのか、という視点とそれへの処方箋は、極めて重要なテーマだからだ(アメリカ発の「オルタナティブファクト」のような言葉からもわかるように、これはひとり日本だけの問題などでは無論なく、全世界的に起こっている現象の一環である)。
 
 
そのような捏造やデマの歴史を見ていてわかるのは、「情報不足と不安」がしばしばその要因になるということと、人が基本的に「複雑な現実」、ましてや「不都合な真実」には向き合いたくないものであるという抜きがたい性質を持っているということである(ちなみに、現代における中世日本の陰謀論・陰謀史観を取り上げた著作としては、呉座勇一『陰謀の日本中世史』をお勧めしたい)。しかしてその誘惑に負けた先にあるものが何かは、先に述べた陰謀論や疑似科学はもちろん、ナチスドイツ、大本営発表、共産主義国の隠蔽体質(cf.ヴェノナ文書)・・・といくらでも例を挙げることができるだろう。
 
 
であればこそ、単にそうした傾向や、そうやって生み出された鬼子を「悪魔化」しても何の意味もない。例えて言うならそれは、病気に対する恐怖だけいたずらに煽り、その処方箋を示さない・考えようとしないのと同じだからだ(この件について、少しズレはするが、感染者数のみ発表し、検査数という分母を提示しないまま増えたの減ったのを日々垂れ流すマスコミという存在、そしてそれに一喜一憂する人々の姿を私たちは目の当たりにしているわけで、全く他人事でも過去の事でもないのは容易に理解されるはずだ)。以前私はそのことについて、「この世界の片隅に:戦争の高揚を描かずして、戦争を理解することはできない」という記事を書いたが、真にそれらを恐れて反省するのならば、そういった構造の提示と対策こそが必要不可欠と言えよう(忘却が論外であるのは言うまでもない)。
 
 
以上が、本書を極めて高く評価する理由になるけれども、ここでもう一つ著者の提示する重要な視点に触れておきたい。それは、偽文書≠無価値であるという点についてである。筆者はそのような偽文書が作成されたことについて、当時の人々の歴史観(≠史実)などを探る一助にもなると述べているが、私も全く同感である。
 
 
私は以前、セルジューク朝とオスマン朝の家系図の話をしたことがある。具体的には、今に伝わるセルジューク朝の家系図の中では末子相続が行われたことになっていて、同様のオスマン朝の家系図では長子相続が行われたことになっている。
 
 
しかし他の史料から継承の実態を見てみると、そのようにして相続が行われたわけではないことがわかる(例えば、セルジューク朝最盛期を現出した第三代スルタンのマリク・シャーは、第二代アルプ・アルスラーンの長男である)。その意味では偽の家系図であり、偽の史料ということになるが、するとこの家系図には「全く価値がない」ということになるだろうか?
 
 
そうではない。というのも、これら偽の史料を捏造する理由を考えると、「捏造してまでセルジューク朝は末子相続、オスマン朝は長子相続を重視する必要があった」ことがわかり、さらに言えば、そこからセルジューク朝は遊牧部族的な末子相続のルールを重要だとする観念が残存しており、一方のオスマン朝ではそのような観念が喪失されていた(観念のレベルでも遊牧国家的特性を失っていた)ということが読み取れるのである(ちなみに遊牧部族は、後継者争いで先代君主の弟VS息子などで分裂・内乱が起こることがしばしばであるように、現実としてルール・理想が貫徹されたかどうかはまた別の話だ)。
 
 
以上のように、セルジューク朝とオスマン朝の偽造された家系図は、単に偽史として処理するのではなく、そこから当時の理想やその変化、あるいはヒストリオグラフィーの分析にまで活用することができると言えるだろう。
 
 
というわけで、繰り返しになるが、本書は単に偽書を偽書として指摘することを超えた、非常に豊かで「実践的」内容になっていると言ってよい。ぜひお勧めしたい一冊である。

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