『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレーコンテンツ消費の現在形』という本が光文社新書から出たのは今年の4月であるが、それまでも「今の若者はむしろネタバレを歓迎する傾向がある」とか「むしろネタバレを見てからじゃないと作品を見ようとしない」といった指摘はなされてきた(ちなみにこのような消費行動とある種対極にあるものとして、前回の「黛灰の生前葬に参加した感想」で書いたような、すでにして長時間が予測されるような配信にリアルタイムで参加することを挙げることができるだろう)。とはいえ、こういう思考態度はひとりコンテンツ消費だけのものではないということは、比較的容易に理解されるのではないか。
「情報化社会」という言葉がもはや死語になって久しいが、グーグルマップ・カーナビ(⇔紙の地図)、amazon(⇔本屋巡り)、ぐるなび(⇔直接の口コミ)、マッチングアプリ(⇔知人の紹介)etc...という具合で、それらの評価や最適解、誤解を恐れずに言えば「結論のようなもの」は、多くの場合我々がそれに触れる前に十分すぎるくらい可視化されている(あるいはこういう環境を理解する上で、ベンヤミンのパサージュ論などが興味深いが、今回はそこには触れない)。
そうして大量の情報が怒涛のように押し寄せる毎日の中で、効率よくそれらを消費しようとするならば、「優先順位」や「コスパ」が重要になってくることは言うまでもない(例えば仕事が山積している状況におけるタスク管理の仕方のようなものだ)。かつてラインゴールドは、モバイル機器を使う集団を見て「スマートモブズ」という言葉を生み出したが、その「スマート」さは必ずしも我々が想像するようなものとは限らない、とも表現できるだろう(こういう情報環境の変化による行動の変化は、以前書いた「自由意思でAIの『奴隷』になっチャイナよ!」などともつながる)。
このような生活・思考様式が常態化すると、最も忌み嫌われるのは「計算可能性の外」である。なぜなら対象が期待外れのものだった場合、他のものにかけられた時間が削られたのに満足感が得られず、大変に損をした心持ちになるからだ。となれば、次のような行動様式が必然的に生じてくる。すなわち、
1.大量のコンテンツ(作品・店・観光地などなど)がある
2.消費するものを絞らなければならない
3ー1.概要をあらかじめ知っておき、触れる価値があるのか参考にする=ネタバレOKの精神性
3ー2.大よその中身が知れればよいので、より「効率が良い」もの、すなわち倍速再生などが是とされる
というわけだ。その結果として、極端な場合には「様々な情報を事前に得ておかなければ、そもそも手を出したくない」という風な「心の習慣」さえ生み出されている、と考えられるのである。
もちろん、映画を鑑賞するのに間などを考えずに早送りして話の筋だけ追うとは何事か!?と訝しく思う向きもあるのは理解できるが、あくまでそういった行動を分析する上であれば、「それだけコンテンツがインフレして陳腐化した結果、それを吟味するという行為にも大して意味を感じられなくなってきている」と考えるのが妥当ではないだろうか。このような行動様式の背景となっているものとして、NetflixやSpotifyをはじめとする定額見放題・聞き放題の仕組みを挙げることができるだろう(あるいは、ゲームを購入してプレイするものではく、「動画で誰かがプレイしているのを無料で鑑賞するものだ」とするような認識・消費形態も、コンテンツの陳腐化とそれを吟味・咀嚼しようとする態度の後退に影響を与えていると考えられる)。
なるほど一つ一つのコンテンツに金を払っていた時代なら、それをじっくり吟味・鑑賞するという行為に必然性があった。しかし、膨大な量のアーカイブがあって、かつそれをどれだけ消費しようと料金が変わらないならば、ある種食べ放題の時に抱く無謀な野望と同じで、とにかく量を稼ごうとするメンタリティが生じやすくなる。すると一つ一つを咀嚼するよりも、スピーディーにフレームだけ把握しようとする行動につながっても不思議なこととは言えない、ということである(まあ色々な例えができるだろうが、各寺院の由来や建築様式の違いを楽しむより、ご朱印状を集めることにプライオリティを置くようなものだろうか)。
ところで、こういったエートスが消費行動に限定されるかと言えば、どうも違うように思える。一昔前によく言われた「キャラ的人間関係」(友人・知人との関係性を始めから計算可能性の内側に閉じ込めようとする思考・行動様式)はその典型だろうし、あるいは数年前の書籍だが、『恋愛しない若者たち コンビニ化する性とコスパ化する結婚』に描かれるように、性愛やパートナーとの生活というものを「計算不可能=コスパ化が悪い」として忌避するようになった傾向も見てとれる。
つまり、冒頭で述べた新しい傾向というのは、ルーマンで言えばシステム化、東浩紀で言えば動物化という、コンテンツ消費に限らない社会全体を覆う傾向と考えることができ、ここからさらに話を発展させていきたいところだが、すでにそれなりの量になったので、次回はそういう関係性とその捉え方の変化から述べていきたい。
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