日本人の宗教的帰属意識に関する視座:思想史よりも「社会史」として考察すべき

2023-05-18 11:56:25 | 宗教分析

前回の記事では、「潜伏キリシタンは表向きに仏教や神道の儀礼を行っていたからといって彼らを仏教徒や氏子と言う人はいない」という話から、「現代の我々も仏式の葬儀や初詣に参加しているからといって、『実は仏教徒なのだ』『実は氏子なのだ』といった評価をすることはできない」と述べた。

 

要するに、宗教儀礼を行うのにはその宗派・教団への信仰心・帰属意識だけでなく、「コミュニティへの帰属」や「個人としての弔いの感情の表明」といった要素があるのだが、管見の限り、巷に流布している言説にはそういう視点があまりにも欠落していることを指摘したのである。

 

一応補助線を引いておくと、これはかつて「地鎮祭は宗教儀礼であるか否か」と論争になった際に(「津地鎮祭訴訟」などを参照)、否定派が「慣習」であると述べたことなどにも繋がるが、「慣習」という言葉には「自発的」・「自動的」といったニュアンスが含まれるように感じたので、「コミュニティへの帰属」(別に宗教に帰属意識も信仰心もないが、皆がやるのでやる)であるとか、「コミュニティからの強制」(あまり気が進まないし意味も感じていないが、加わらないと体面を失うので参加する)といった側面を浮だたせるためにも、あえて潜伏キリシタンとのアナロジーで説明した次第である(この説明がいささか抽象的に感じるなら、例えばお歳暮やお中元を連想してもよいだろう)。

 

なお、前述の訴訟の捉え方や政教分離のあり方については、戦前のいわゆる国家神道や神道を非宗教とした政策など様々な要素を考慮に入れなければならない大きな問題のため、ここでは詳しくは扱わない。一応一つだけ言っておくなら、こういう「コミュニティへの帰属」や「コミュニティからの強制」という要素を押さえておくと、共同体の解体が進む現代において、葬儀の公共性や葬儀形態の強制性が減退し、その人の信条や経済状況にあわせて直葬など様々な選択肢を取りやすくなっていきている、という点だけ指摘しておきたい(これまた抽象的に感じるなら、直葬や樹木葬、あるいは戒名といったワードを連想すれば十分かと思う)。

 

ともあれ、以上の理解を踏まえると、日本人の宗教的帰属意識について考える場合に、巷の言説はもちろん一般向けの市販本についても、その多くが思想史に偏っているという問題点に気付かされるのではないだろうか(そして、実態調査ではなく、印象論に基づいた超歴史的な記述が不毛にも量産される。まあその印象論を見ていけば、「脱亜入欧的オリエンタリズム」のようなバイアスの傾向が分析・抽出できる、という副次的な実りもあるにはあるのだが。これは神話や偽史、偽書の分析と同じ視点と言える)。

 

このような偏りに無自覚なまま放置する限り、日本人が自身を無宗教だと自覚していくダイナミクスを解き明かすことは50年経とうが100年経とうが不可能だと私は考えるが、次回の記事ではなぜそのような偏りが生じてしまいがちなのかについて、少し考えてみることにしたい。


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