差別の薄まりと他人の見下しの関係

2006-08-30 00:21:36 | 抽象的話題
『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)という本のタイトルを見てちょっと気になったこと。


最近他人をすべからく見下す人が増えている、という意見がある(つまり、「俺様以外はバカだ」というわけだ)。この見解が正しいのか間違っているのか、私には何とも言えない。こういう事象は非常に感覚的なものであり、客観的に比較することは困難であるからだ。少なくとも、この手の話を印象論で語ると非常に危険であるのは間違いないだろう。


そこでここでは、昔はどうだったのかを考えてみることにしよう。当時も人を見下す行為が日常的に行われていたのは言うまでもない。だがそこには、差別という要素が今よりずっと幅を利かせていた。差別とはつまり「~は劣った集団だ」という認識であり、ことによっては「人間ではない」というレベルの認識・差別さえ少なくなかっただろう。ともあれ、当時においても他人の見下しは当然のように存在していたし、その大きな部分が差別に則っていた考えられる。


一方現代の日本では、差別する対象が以前に比べてかなり減ってきている。それは別の言い方をすれば、明確に見下せる存在が減ってきているということだ。この事態からは、二つの結果が想定される。一つは、そのまま差別や見下しが消滅するというもの。そしてもう一つは、その代わりになるものを求める、というものである。


思うに、他人を根拠なく見下すという行為は、明確な差別対象の喪失と入れ替わりの現象なのではないだろうか。劣っていることが自明とされている存在を強く差別し見下することが当たり前だった時代、人々の見下し、差別意識は明確な方向性を持っていた。しかしその消失・薄まりにより、それが根拠のないまま全体化されてしまったのではないだろうか(言葉狩りなども関係していると思われる)?


他人を見下すという行為が根拠なく一般化するようになった要因の一つは、こういった差別対象の喪失・薄まりと関係があると思われる。



まあもっとも、こういう事象を考える場合、現在の人々が犯す「回顧という名の誤謬」に気づき、実態を把握しようと方向性を定めることが先決なのではあるが。だいたい、少年犯罪率の話やら色々と「まやかし」が多いからね(悪笑)援助交際のことも考えると、結局中年どもの思い描きたいことをマスゴミが補強してあげてるって現実は忘れないようにしないといけない。つまりは、現在への反感を過去の理想化に繋げたら駄目だってことだ。

ちなみにこの他、『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』も他人の見下しという点で興味深い本である。
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