中居正広の件はフジテレビという局ぐるみのレベルへと広がりつつあり、さらにここからどこまで拡大するのか続報が待たれる状況だが、マスコミは「沈黙は金」とばかりにこの件を報道していない。
なるほど今この瞬間だけを切り取って見れば、「一人損」を避けるとか、あるいは抜け駆けで自分(たち)に批判を集中するのを避けるという意味で、横並びの空気読みゲーム(保身に走るサラリーマン・業界人)としてこの対応は必ずしも間違っているとは言えないが、今やメディアはテレビ・新聞だけでないのは言うまでもないので、沈黙とはせいぜい「雄弁よりはマシ(に思える)」程度の価値になりつつある。
このことについては、松本人志の際に「文春砲」と絡めて述べたが、イエロースキャンダルの象徴的な存在であった週刊誌が、今やジャーナリズムの代表とさえみなされるようになってしまっているという、その不健全さの背景でもある。つまり、弱体化する中でますます保身に走ってスポンサーに尻尾を振りつつ不都合なことにはだんまりを決め込むしか脳のないテレビ(と最近話題にすらならない新聞)よりは、多少の飛ばし記事などがあったとしても、「週刊誌の方がまだマシ」という話なのだ。
ゆえに、週刊誌報道の問題点を指摘することは当然重要なのだけれども、テレビ・新聞がこの体たらくでは、他の報道機関の注目度が相対的に上がるのは避けられないし、ネットニュースに関しても同様である(言うまでもないが、「ネットにこそ真実がある」という発言ほど、自らを愚昧な狂信者だと自己主張するのに適切なものはない)。
まあ本来は、昨日の亀田製菓のインタビュー動画とその問題点についても述べたように、戦中のプロパガンダや言論統制を例に出すまでもなく、そもそもマスメディアとはその程度のものであって、だからこそメディアリテラシーを高め、鵜吞みにせずにクロスチェックする習慣が必要不可欠、という話になるのではあるが(ちなみにそれだからこそ、国語の授業では単一の文章を読解という名の「鑑賞ごっこ」をするのではなく、ある程度ディレクションを設定した上で、現在の大学入学共通テストではないが、同じ出来事について書かれた複数文章を比較対照したり、あるいは同一文章への様々な評価を読ませる訓練をこそやらせるべきだとも以前書いた。そういう実地訓練なしに、ただ「メディアリテラシーが大事です」「ネットリテラシーが重要だ」と子供に言っても、いい大人たちが容易に騙されているのだから、そんなものは絵に描いた餅にすぎないのである)。
なお、もう少し話を大きくして組織論的な話をすると、先日Vtuberビジネスに関連して、「ベーシックインカムチャンネル」の動画を取り上げた。Vtuberの動画に限らず、メリトクラシーや共同体論など様々なテーマを興味深い切り口で扱っているチャンネルなのだが、その主張の一つとして、「組織の透明性・普遍性をひたすら高めていくことは、必ずしもプラスにならない」というものがある(この部分はなかなか端的に表現するのが難しいので、本来の主張から抜け落ちてしまっている要素も多いのだが、一旦このように書いておく)。
この話自体に異論はない。それは単に組織(企業や共同体)のカラーとその価値というだけでなく、普遍的ルールの設定とマニュアル化を徹底していくことが、果たして企業はもちろん社会の発展にプラスなのかと言えば、必ずしもそうではないからである(これはUBIが引き起こした弥助問題などでもその病的性質が垣間見える、「コンテンツにおけるポリコレの強制」という現象がある意味最もわかりやすいだろう)。
しかしそれにもかかわらず、その主張が納得感を持って受け入れることが(少なくとも現在の日本では)かなり難しいと考えている。なぜなら、ジャニーズ問題、ビッグモーターの不祥事、宝塚問題、「セクシー田中さん」問題、そして今回の上納システム疑惑といったように、「閉鎖空間であることでの組織的腐敗とその隠蔽」があまりに多すぎ、またあまりに巨大すぎるからである。
ここまで害悪が広く認識されてきている以上は、「普遍的ルールに従う組織造りが必ずしも善とは限らない」と主張したとしても、それは組織的悪行を軽く見ているか、下手をすれば自身も既得権益側として利益保持を狙っているとみなされるだけで、説得力をまるで持たないからである。
言い換えれば、徹底したチェックアンドバランスの仕組みの紹介や提案、あるいはそれを受け入れるための状況作りの提言をセットにしなければ、当該チャンネルで主張している組織論・社会論は結局グローバリゼーションの動きには勝てない(その訴求力を持てない)という意味で、絵に描いた餅に終わるものと思われる。
以上。
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