古典教育の重要性とは?:「国民意識の涵養」で納得される訳がない理由

2024-06-01 11:43:13 | ことば関連
 
 
 
 
古典教育の話はあと3つくらいだが、一個一個が長いしちょっと一週間くらい置いとくか・・・って新しい動画が上がっているじゃあないか(・∀・)!
 
 
まあ何とも凄まじい時間帯の更新だが、この内容について、前回の動画も踏まえつつ、少し触れておきたい(ちなみに古典教育に関する記事の予定は、大まかに言って「古典を原典で読む人間の割合」、「日本宗教論と古典教育論の相似形」、「ポパーと反証可能性」となっておりマス)。
 
 
まず、今回の動画について目新しさは全く感じなかった。というのも、漢文が重要な理由は近代文語文の件で触れたし、現代語訳で代用可能では?という話も自分が(主に古典教育必要論者への反駁として)常々言っていることだからだ。ただ、1950年代の議論も例示するなど、議論を立体的にする工夫は良かったと思う。
 
 
ところで、この「古典教育は必要なのか?」についてはコメント欄のやり取りも(動画製作者の詳細な補足も含め)大変興味深いのだが、その中で一つ驚くべきものは、「この動画を見たのに、まだ古典不要論を語ってるの?」という趣旨のものだった。一瞬頭大丈夫か?と思ったが、しかしこの反応は取り上げて吟味するのに有益なので、少しお付き合いいただきたい。
 
 
まず結論から言うと、この動画を見ても古典教育不要論を説く人々の違和感が全く解消されず、ゆえに議論も止まないのは、説明している内容が、「なぜ古典教育は必要なのか」ではなく、「なぜ近代以降の学校は古典教育を止めることができないのか」だからだ。もう少し具体的に解体すると、以下のようになる。
 
(1)動画製作者は古典教育の必要性について、「国民意識の涵養」と述べている
(2)しかしそれは、古典教育が普遍的に重要である理由たりえない
(3)なぜなら、「国民意識の涵養」が強く重視されるのは、近代国民国家に特有の現象だからである
(4)ゆえに、動画が説明しているのは、「近代国民国家にとっての古典教育の重要性」であり、またそれでしかない
(5)それを別言すれば、「国民国家の政府が古典教育を止められない理由」とも表現できる
 
(1)を踏まえた時に、それはあくまで(3)~(5)のことであって、(2)の話では決してない、と看破しているのは、むしろ正常な論理的思考力が働いているとさえ言っていいだろう。よって、(2)の違和感を軸に不要論を唱えている人々にとって、この動画で提示された理由は腹落ちしないばかりか、むしろ「何か誤魔化された感じ」さえするのではないだろうか。
 
 
動画の内容はあくまで「国民国家が国民に対しての古典教育を必要と思う理由の説明」であって、古典教育が必要でないと考える人への反駁にはなっていない、ということだ(あえて雑に言うなら、「お上」の考えを説明されたとて、それに納得するかは全く別の話ってことやね)。その意味で、動画を見てもなお古典教育不要論のコメントが大量に出るのはむしろ当然であって(なぜなら論拠を否定はされていないため)、そのことに驚く方がむしろ不見識とさえ言えるだろう(だから私は「この動画が議論の出発点になることが望ましい」という趣旨の表現をしたのである)。
 
 
ちなみにこれを別の角度で言うと、「再び古典教育不要論に関して:なぜそれが強く訴えられるようになるのか?」で書いた、人・物・情報の流動化が進んだグローバル社会、かつ価値観が多様化・複雑化する成熟社会で、古典教育不要論がかまびすしく語られるようになるのは必然的なことである、という説明になる(なぜなら、ともに「国民国家の解体」と結びつくからだ。ちなみに共通前提の消失と暗黙の了解を前提としたハイコンテクストなコミュニケーションが不可能となる未来については、こちらの記事を参照)。
 
 
なお、念のため補足しておくと、動画作成者はそもそも(近代国民国家における)教育を「国家的な洗脳」という言葉で表現しており(フーコーやアンダーソンらの知見からすれば当然の話だが)、これは受け手の警戒心を生み出すワードであることから、おそらく作成者自身もこの目的を妄信しているのではなく、多少なりとも引いた目線で語っているのだろう、というのはすでに述べたとおりである(まあもしくは、美辞麗句を並べて反論しにくくしたりはしない辺り、少なくとも「誠実な語り手」ではある・・・と表現した方が適切かもしれないが)。
 
 
以上。
 
 
 
 
【補足のような蛇足のような】
 
ちなみに、もし私が「古典教育の目的=国民意識の涵養」という目的への違和感を古典教育必要派に理解してもらうなら(それを真剣に吟味する状態をマインドセットするなら)、おそらく彼・彼女らにこう尋ねるだろう。即ち、「あなたはその試みが成功していると思いますか?しているならその根拠を、していないならその根拠を具体的に挙げてください」と。
 
 
そしてこう問うだろう。
 
日本人て、弱者救済に関するアンケートとかで見ると、自己責任論で考える人の割合がアメリカよりも多いですよね。移民国家で仕組み的にも実力主義のアメリカがそうなのは、まあわかるじゃないですか。でも、日本てご存じのように比較的同質性の高い国家ですよね?しかも、古文や漢文のような古典も教育がなされていると。じゃあその教育を通じて「国民意識」とやらが醸成されるはずなら、なぜこんなに「我関せず」の切断処理をする人が多いんですかね?
 
あるいは、ネットとかを見ていると、自分に都合の悪い主張をする人間を明確な根拠もなく「日本人ではない」と決めつける人さえいますよね(まあ炎上を起こす人の割合と同じで、そういう発言をする人の割合には注意が必要ですけど)?私は、これらが「国民意識の涵養」の失敗を例証していると思いますが、あなたはどう思いますか?
 
 
別に論破することが目的ではないので(ちなみに「論破ゲーの不毛」なんて記事も準備中だったりするw)、この問いかけのおかしな部分(反論の余地)も自分で書いておくと、これは日本の「去る者は日々に疎し」的な地縁的・ムラ共同体的な発想が根幹にあり、「仲間以外はみな風景」だから、「自分が気に入らなくても公益性という観点で論じてみる必要がある」という発想ではなく、「知らんがな」という切断処理に直結させてしまう、といった説明は可能だ(このローカル性について例を挙げると、旧日本軍で見られた、上官と部下といったオフィシャルな関係性と並行して、あるいは時にそれを超越する枠組みとして、先輩と後輩、同郷といった関係性が組織をコントロールした、といったことを想起してもよいかもしれない。この情緒的な関係性が、インパール作成を含め、しばしば組織をおかしな方向に導いたことはよく知られていることである。ちなみになぜ戦前の事例を持ち出すのかと言えば、これが必ずしも現代的な現象とは言えないことを示すためである)。
 
 
またこれに絡めて言えば、「古文や漢文が同じ日本人としての連帯意識を喚起した」なんて話はついぞ聞いたことがないが、その一方で、方言はむしろ(国民意識よりもミニマル・ローカルな)同朋意識を喚起するネタとして、そこここで取り上げられるのと比較対照することもできよう(我が故郷の熊本弁については何度となく記事を書いたことがあるが、その他津軽弁の「すんたろす」やその動画へのコメントなどは好例と言える。ちなみに方言と古典は全く連続性のない話だと思われるかもしれないが、古文で習う連体修飾格の「が」は、熊本弁では「おる店」=「俺店」や「おるつ」=「俺もの」といった事例が確認できるように、むしろ地方でこそ古い用法が残っていたりするのである)。
 
 
ただ、そういった再反論を踏まえた上でもなお、結局は「古典教育を通じた国民意識の涵養に失敗している」という結論に着地するんじゃないですかね?という話で、「じゃななんでそうなっていると、あなたは思いますか?」とやはり私は質問を続けるだろう。
 
 
その人が思考せる者なのか、はたまた単に既存の枠組みにどっぷり浸かっただけの思考停止の徒や権威主義者かを見分けるためにもね。

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