日本人の「無宗教」:触らぬ神に祟りなし

2013-06-18 18:25:20 | 宗教分析

1966年に生まれた子はよくない、ということで出産を避ける人が多くて出生率が大幅に低下した」

 

という話を高校時代に聞いて、ここは仮にも現代社会なのかと呆れた覚えがある。とはいえ、その年の出生数がゼロな訳ではなく、またその年生まれの人たちが就職や結婚などで差別されたとも聞かない。ゆえに、地域性(=都市と地方の差異)や時間差も考慮する必要はあるにせよ、心の底から信じているわけではない、と見ることができるのではないか。まあ親にしてみれば、たった一年出産をズラせばいいだけのことであって、わざわざ評判(?)のよろしくない年に生むこともない、という心理が働いたことは想像に難くない。「危険入るべからず」とある場所にわざわざ行こうと思わないのと同じで、その危険性を細かく検討したわけではないがとりあえず「触らぬ神に祟なし」・・・という行動原理が背景にあるように思う。

 

「丙午なんて信じてないよ」という人や、そもそも「何それ?」というレベルの人も多いだろうし、そういう人にとってはそれをある程度一般的傾向に広げることに抵抗を感じるかもしれない。しかし例えば、「厄年」に関してはどうだろうか?その背景や根拠については知らないにもかかわらず、何となく危ないものとして忌避されているを見聞きしたことがあるのではないだろうか(その他「仏滅」など)。このように、様々な形・レベルで残存しており、それゆえある程度広く見られる特徴と言えるように思われる。

 

ただ重要なことは、これらをどの程度真剣に信じているのか?ということである。たとえば「仏滅」を避ける人が、陰陽道を体系的に知っているわけでもなければましてや信仰しているわけでもなかろう。ただ、良くないと思うから、あるいは良くないと言われるから・・・といういささか消極的な理由でそれを避けているだけなのではないか(反対に自分にプラスとなるものとしては、現世利益的な「おまじない」などがその類である)。

 

このことは二つの側面があって、一つは、体系的でないがゆえにたとえば近代化や科学的見地との齟齬が起こりにくいということ。そしてもう一つは摩擦が起きない(起きにくい)がゆえにそのまま残存しやすくなり、消えるとしても漸進的になるということである。今述べたように、「触らぬ神に~」的傾向は融通無碍なものであって、それ自体をプラスともマイナスとも言うことはできない。ただ、そういう感性を理解すれば、「パワースポット」と言って人を集めてお金をとる、といった具合にいくらでも利用できるようには思うし、また最初の事例で言えば、「1982年生まれには犯罪者が多い」といった根拠のない発言がネットで見られるが、そのような印象論が(時には疑似科学の装いをしつつ)いかに巷に普及して間違った認識を生み出すか、といった冷静な視点を養うこともできるだろう(『戦前の少年犯罪』などを参照)。


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