「学校であった怖い話」から受けた影響について:「逆殺人クラブ」とメタ視点

2024-02-03 16:49:45 | ゲームよろず
 
 
 
 
「学校であった怖い話」はなぜ傑作となりえたのか?という視点でPS版の「S」と比較しながら無印版における「ノスタルジー」の要素を強調した。端的に言えば、学校という舞台、ピアノ主体のクラシック調、粗い画像など、全てが「懐かしさ」や「原初的な恐怖」と結びつく要素を持っているのがSFC版であり、そこに曲調の変化や画像のアップデートをしたことでかえってその特長を失ってしまったということである。
 
 
さて、今回は同じくSFC版とPS版の比較対象という視点でキャラクター描写のブレとその問題性について書こうと思ったが、原作者の語る制作秘話の動画を見てそれがあまりに興味深い内容だったので、急遽予定を変更し、「逆殺人クラブ」の話をしたいと思う。
 
 
冒頭の動画では、最初は一番上の新藤誠から選ぶプレイヤーが多いと予測されたこと、そしてそうすると一番最後に福沢玲子を選択する可能性が高いことを述べた上で、福沢を6話目に持ってきた場合、新藤6話目で発生する「殺人クラブ」の逆バージョン、いわば「逆殺人クラブ」の話になる予定だったことが述べられている。
 
 
この話は、15年以上前に紹介したPCゲームの「アパシー 学校であった怖い話 VNV版」のラストを飾る話となっており、その中の付録か何かで製作者の飯島自信が「主人公を殺人鬼として描くとは何事か」と言われこのシナリオが没になったという趣旨のことを書いていた。そのため動画の説明も最初は特に驚かなかったのだが、聞いていくうちに未知の情報が次々と出てきたので、かなり興味を引かれることになった。
 
 
まず、PCゲームでの逆殺人クラブは、主人公坂上が「どいつもこいつもデタラメな話ばかりしやがって」とブチ切れ、会が終わった後で一人一人殺害していく展開となっている(10年以上経っているので若干の記憶違いがあるかもしれないが)。それを見て、「まあ世の中には一人称の話者が犯人だった推理小説もあるくらいだから、主人公(こそ)が一番ぶっ壊れてました=信頼できない話者って展開も別に不思議じゃないわな😌」という具合で特に感銘も受けなかった。しかし、今回語られた本来の逆殺人クラブは、殺人クラブによって妹を殺害された坂上が、復讐のためにその犯人たちを集め、6人目の話が終わった後で自らの正体を明かし、参加者たちを皆殺しにする内容だったとのこと。
 
 
ここまでなら、本作の少し前(1993~1994年)に連載された『金田一少年の事件簿』の「悲恋湖伝説殺人事件」などもあるため(まあこちらは緊急避難なので快楽殺人と一緒くたにはできないが)そこまで驚くような内容でもないが、最後の最後に「次はお前の番だ」と画面のこちら側に語り掛ける「第四の壁」まで意識していたというのを聞いて、思わず膝を打った。
 
 
もちろん、「第四の壁」そのものは、筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』(1970)などの小説でも描かれているし、演劇などでもそれを意識した演出が行われるようになってすでに久しい(ちなみに、飯島も述べている「自分が作品の登場人物として見世物にされているのではないか?」と疑いそこから脱出しようとする話は、『ユービック』(1978)といったF・K・ディック作品に多く見られ、その代表は1990年の映画「トータルリコール」だろう)。
 
 
とはいえ、制作においてメタ構造の意識がここまで徹底していたことを踏まえると、殺人クラブで見られる「全ての怪談は主人公を罠にはめるための作り話」という展開はもちろん、諸々の話に登場する「え、当該の人間が死んだなら、それは誰が語った話なの?」という問いが作中でなされていることも、しごく当然のことと言えるだろう(前にも触れたが、時折「学校であった怖い話」の動画に「その話が本当なら、その話を知っている人間がいることがおかしい」と鬼の首を取ったようにコメントをしているのを見ることがあるが、まさしく釈迦の掌の上で踊る孫悟空のようなものである)。
 
 
で、なぜこの逆殺人クラブとメタ視点の話に今回強い感銘を受けたのかと言うと、私事で恐縮だが、自分の歴史認識や宗教、都市伝説などへのメタ的な物の見方は、おそらくこの「学校であった怖い話」をプレイする中で涵養された部分が極めて大きいと再認識したからだ(ついでに言えば、そのあと約10年の時を経て「ひぐらしのなく頃に」へドハマりすることへと繋がるのだが)。
 
 
メタ的な認識(というか既存の枠組みへの懐疑的な視点)の由来としては、「宗教と思索」などを挙げる方がまあわかりやすいと思う。確かに、小学校時代の「宗教と思索」は宗教や社会(世間)への懐疑、中学校時代の「嘲笑の淵源」は人間理性への懐疑、高校時代の「私を縛る『私』という名の檻」は自己(同一性)への懐疑といった具合にその内容を整理することは容易だし、理解しやすい枠組みだろう(そしてその結果、私的領域はリバタリアン、世界理解はカオスになるのも、ある種の必然ではある。ちなみにそういうスタンスでいればこそ、信仰の中に「不合理ゆえに我信ず」という思考態度もあることを、私としては理解しやすいものだと感じる)。
 
 
しかし、それらがある種の「土台」を作ったとしても、そのような認識が前面に出るようになったのは、「学校であった怖い話」を通じて膨大な量の物語とそのバリアントに触れて展開の先読みをするようになったことによる。特にそれを強く意識したのは、すでに発売から数年経った高校1年の時、『大技林』片手に「隠しシナリオ2」を出すために何周も何周もプレイしてた頃だったように思う。もはや何十周もして話に慣れた上に、引いた目から物語の選択肢と結末を見る中で、たとえば「怖い方に行くのを回避できるように見える選択肢を選ぶと、かえって怖い展開が待ってるんだな」といったパターン読みの修正がついてくるのである。
 
 
このようにして、「学校であった怖い話」はメタ視点の実践編として機能したと表現できるだろう。この話は例えばグリム童話の構造分析などにつなげるのが最もわかりやすいと思うが(例えばその中で虐待を行っている登場人物が近代においては実母→継母に変化するが、これは国民国家の土台となる理念的家族観からの逸脱を防ぐための改変と考えられる)、それ以外でも宗教に関して「天国や地獄はあるか?」ではなく、「なぜ天国と地獄を措定して話を展開するのか?その意図は何なのか?」という視点の記事を何度か書いたことがあるが、そういった視点は「宗教と思索」よりもむしろ、「学校であった怖い話」を経て身に着いたものと言える。
 
 
こういう視点でいくと、例えばカルヴァンの予定説は著作の初版に出てこず、途中から記述として追加されるようになるであるとか(全知全能の神という観念を徹底させると善行による救済はそれと矛盾するが、さりとてそれを前面に押し出すのは一般信徒にはあまりに峻厳すぎると判断した?)、唐代の歴史を記した『旧唐書』と『新唐書』を比べた時、後者の方が記述としては整合的に見える部分も多いが、それは後者=正しいということでは必ずしもなく、むしろ話に辻褄合わせをするためにそれと矛盾する要素を切り捨てたとみなせる部分もある・・・といった発想・分析と結びついていくわけである。
 
 
なお、後者のような視点は、陰謀論というものの特性と訴求力を理解する上でも重要な視点であるとともに、様々な作品がメディアミックスを通じてどのように改変されたのか否か、またその理由はなぜか?という部分を分析する姿勢にも繋がってくる。その意味で言えば、様々なコンテンツに触れてその類型に親しむことは、例えば「厳島の戦い」が江戸時代の軍記物などを経て今日のような形に盛られていく過程を分析・解体するようなスタンスにもつながるわけで、両者を截然と分けられるわけではないという認識へと結びついていく(人間が読んでいて気持ちよく摂取できるサプリメントを用意する、というのは存外多様なパターンはないようで、「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったものである)。
 
 
この点、八王の乱や西晋衰退の槍玉にあげられることの多い賈南風の逸話の作られ方などは参考になるだろう(もちろん、それは彼女が聖人であることを全く意味しない。というか、そういう「是々非々なき二項思考」こそが唾棄すべきものの一つとさえ言える)。
 
 
 
 
 
 
ここまで述べていくと、『日本現代怪異事典』を紹介しつつ、そこで家系図の捏造(偽史)などに言及した理由も割合呑み込みやすくなるのではないかと思う。もちろん、一般庶民が無責任に流布した都市伝説と、史料批判などを経て形成された歴史を一緒くたにするな!といった意見は出るだろうし、それに反対する気もないが、一方で「人間の想像力ってオモロー!」という視点、すなわち人間の想像力の表現類型で言えば(まさに「イデオロギーとユートピア」!)、両者はやはり等価なのである(だから私は認知科学や行動経済学などにも興味を持っているし、さらにこれは「沙耶の唄」への高い評価にもつながる)。まあ『サピエンス全史』の中でハラリ氏も人間の妄想力が文明の構築を可能にした!なんて言ってるし、妄想力の化身を観察するのはげにおもしろし、ということやね(・∀・)
 
 
まあこういうスタンスでいた自分だから、前述もしたように10年近い時を経てひぐらしにハマったのはある種必然的なことで、またそこでの諸々の思考やコミュニケーションがこのブログを開設する背景になったことを踏まえれば、私の人生に対する「学校であった怖い話」の影響度は極めて高いものだったなんだなあ・・・と認識できておもしろかった(・∀・)と述べつつこの稿を終えたい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« リスペクトのなきメディアミ... | トップ | なぜ週刊誌報道がこれほど注... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ゲームよろず」カテゴリの最新記事