ワットヤイチャイモンコンを出たところで冷たいおしぼりをもらう。結構汗を書いていたので生き返る心地がするが、それにしてもこの快感は熱湯によるデスエクスタシーに通じるものがあることだなあ・・・
と変態的な妄想にふけっているうちに次なる目的地ワット・マハタートへ到着。これまではいかにも田舎という雰囲気であったが、ここは大通りに面しているため、遺跡の外は車通りも多く賑わっている(この喧騒が以前アユタヤに来た時は経験しなかったものなので新鮮だった)。しかしひとたび遺跡に足を踏み入れるとまるでそこだけ時間の流れが止まっているような感じがして、そのギャップがおもしろい。
さて、ツアーの常としてあまり悠長に見ている時間がないのでまずは団体でサクサク移動するなり。
たまたま撮った写真に地鶏をしてる女史が写りこんでいた。本人には全く罪のないことではあるが、アヒル口でドヤ!て感じの地鶏してる姿を客観視すると、何とも気まずいものがあるw
ちなみに私自身は地鶏をしない。なぜなら、する意味がないからだ。もし仮にあるとすれば、せいぜい他人の写真を引用したことを疑われないようにするくらいだろう。でもまあ画像加工すら容易になってきてる今日でそんなこと気にしてもねえ・・・別に仕事でやってるわけじゃねーしw逆に地鶏しない理由は明確で、人間は美しい景色や建物を写す際には邪魔にしかならないという意識があるからだ。建物の大きさを示したり、周囲の雰囲気を伝えるのには役に立つこともあるけどね。ま、この辺はあっしの人間に対する興味の薄さが反映されているとも言えるかもしれんね(゚∀゚)アヒャああ、ちなみにこれは地鶏批判ではないよ。そんなもん個人の自由なんでね。どうぞ御随意に。
いやーすばらしい。この風雪に耐えてきた煉瓦造りを見るだけで、異世界に来た気分になるね。異世界と言えば、さっきの寺院ではドラクエ7の神殿の曲が合ってる感じがしたよな。さあてそれじゃあそこら辺に落ちてる石板を集めて・・・いや、ちょっと待てい。「バンコクナイツ」でも暗示されてたじゃないか。「ここではないどこか」を夢想して逃避したり、それを求めて他人を食い物にする連中の醜さというものを。「本当は正しい世界なのに何かのせいで間違ったことになっている。だからどこかには間違っていない理想郷があるはずだ」というのは、ありがちな妄想である。しかしそもそも世界は混沌としているのであって、あたかも何かの体系だったものとして思い込んでいる、あるいは思い込まされているだけなのだ。それが宗教的世界観であれ、国民国家であれ、マルキシズムであれ、精神分析であれ、各種陰謀論であれ、何であれね(そもそも、ゲーデルでもハイゼンベルクでも何でもいいが、「無矛盾」なるものが存在しえないことがすでに明らかにされているわけで、それはつまり「無謬」も存在不可能であることを意味する。これが「全知全能の神」なるものを否定するのは言うまでもないが、人間の営為について言うなら、「たとえ一つ一つの思索が紙の一枚のような薄さであっても、積み重ね続ければ天井という名の真理に到達できる」といった発想が成立しえないことを意味する)。その典型例の一つが「人間」というものの捉え方だけど、それが人工知能の発達と社会変化を通じてどう変化するのかしないのか、まあ見てみようじゃあないか。
はい、有名な木に取り込まれた仏塔ですね。正直俺にゃあ三角締めを食らって悶絶している顔にしか見えんのですが(笑)、それは俺の精神が濁りきっているからなのかな、かな?
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