※この記事は、作品そのものの評価というより作中の主人公の人生についての私見である。
「人間失格」において、読者の多くが戸惑うのが「神の罰しか信じられない」という主人公の強烈な罪悪感(あるいは原罪の感覚)ではないだろうか。よってここでは、その罪悪感の在り処のついて述べてみよう。
罪悪感の在り処は、そもそも「世間」を理解できないことにあった。主人公はそのことを「道化」という仮面によって誤魔化していたのであるが、ふりをしているという意味では結局「不可解な世間の人々」と同じではないか、と感じていたのではないかと推測される。だからこそ、演技を見破られると大いに恥じたのだろう。自分もまたふりをする「世間」の人々と同じだと暴かれることに他ならなかったからである。
世間(社会)が不可解なものに感じられるというのは、ほとんどの人が経験することながら、たいていは何とか帳尻を合わせていくものである。ところが主人公にはそれができない。あまりに「道化」演技が上手すぎて、問題に直面する機会がほとんどなかったからだろう。その事実はまた、「世間」への疑いとも関連してくる。不可解なものであるなら、しかもそれが自分の生活と大きく関わってくるものならば、それを解体、解明しようと努力する必要がある。しかしそういう姿勢も、「道化」で世を渡れてきた主人公には身に付かない。主人公は徹底的に疑うことはせず誤魔化すことを選んだのであり、言わばその「不誠実さ」に自ら気付いてしまうがゆえに罪悪感に苛まれるのだと思われる。私もまたふりをする、「不可解な世間の人々」と同じだ、と。くり返すが、そういう意識があるからこそ「道化」を見破られた時に深く恥じ入るのである。
「世間」に馴染めない主人公は、自分が信じてもいないアウトローの側に身を寄せてみたりする(その意味で、彼の行動は反抗というより逃避である)。しかしそこも、彼が身を任せる場所たりえない。というのも、主人公は「世間」を懐疑的に見る眼が、能力が備わっていたが、それは「世間」に対置されるアウトローの主張・立場に含まれる欺瞞などをも見通していたからだ。こうして彼は、「世間」からもアウトロー集団にも身を置かない根無し草になったのであった。
どこにも属さないのであれば、確固たる自己を確立するしか手はないのだが、実はその契機が一度だけあった。それが、自分の「道化」を暴いた者の前で、自らを偽ることなく自画像を描くという行為がそれである。描き出された自画像は「おばけ」と自称するほど異形のものであったが、それを土台にして自己の解明に向かうことは十分可能であった(それは「世間」が理解できない原因の究明にも繋がる)。にもかかわらず、彼はもとの「道化」に戻った。内面を描いた「おばけ」は意識にあったが、それを追求することができなかったのだ。もし彼が、「おばけ」の時と同じくらい真摯な探求を続けていたら、事態は異なる方向へ行ったことだろう(もっとも、絶望して自殺したかもしれないが)。しかし最後まで、主人公には「世間」も(それと対置される)アウトローも不可解なままであったし、自分自身でさえそうであった。そしてそのような根無し草的生き方を突き詰めた結果が「ときは、ただ過ぎていきます」という言葉に端的にあらわれているのだろう。主人公が常に「世間」を恐れ、それに背を向けて生きるしかなかったのは、「世間」に対置できるものを自らの中に構築できなかったからだと言えよう。
◎「ふりをする」ことへの懐疑
父親の集会の時、面前では誉めて裏では悪口を言う人たちの様子を不可解なものとして描写している。いわゆる「ホンネとタテマエ」であり、そんなことは誰でもやっている。また本心のみが飛び交う世界が果たしてどんなものか想像すれば、それをただ批判するのは安直すぎるだろう。しかしその理由で、「ふりをする」ことを本当に正当化できるのだろうか?もし正当化できるのであるとすれば、どうしてタテマエに対しての批判や、時には慟哭さえ漏れ出てくるのだろうか?要するに、誰しもそれを完全に受け入れているわけではないのだ。そして誰もが、大なり小なり「ホンネとタテマエ」への懐疑を抱きながらそれを利用しつつ生きているわけである。
ところで、本作の主人公はどうであろうか?世間的な「ホンネとタテマエ」を理解できない(し疎んじてもいる)彼は、「道化」という独自の身の処し方を開発する。「道化」に関して注目すべきは2点ある。一点は、その道化が心中の時にさえも表れていること。もう一点は、それを見破られた時に激しい羞恥心にかられることである。どうして羞恥心にかられるのだろうか?それこそ、主人公が「ふりをする」行為に対して懐疑と嫌悪感を抱いているからに他ならない。だから、道化がふりに過ぎないと見破られることは、自分が理解できない存在として見なす世間の人間と同じ恥ずべきことをやっていると指摘されることに他ならなかったのだ。そして主人公は、一度だけ自分の内面と真剣に向き合い、嘘偽りの無い内面世界を外界に表明した。それが「おばけ」だったのである。
しかし主人公は、堀木との出会いなどを通して気付く。「世間」とは巨大な何かに支配されていたり、あるいはその枠組みを誰もが共有しているわけではなく、個人の思想がかなり反映されたものである、と(この辺り、『脱走と追跡のサンバ』で出てくる世界を統括するコンピュータを私は思い出す)。つまり「世間」などというものは、願望の投影に過ぎないのである。これは主人公が、「所詮「世間」などというものは集団幻想に過ぎない」ということを理解した瞬間であったと言える。これによって、主人公は「世間」に、あるいは一般の人に前ほど怯えなくなった。こう書くといかにも喜ぶべき出来事のように思えるが、実はその認識によって主人公は自分の内面と真剣に向き合う機会を永久に失ってしまったのであった(今私は「所詮」という言葉を使ったが、「所詮」という思いからは真剣な問いかけは決して生まれない。あるのは斜に構えた姿勢だけだ)。
主人公はふりをする行為への懐疑から本質的に免れえてはいない。それは「善と悪」「罪と罰」の話を冗談半分に始めながら最後は本気になってしまったことから明らかである。さりとて「おばけ」の時に見せた自己の深奥との邂逅やその表現はもうできない。周囲に「道化」を見破ることのできる人間がいなかったことも大きいが、何より真剣に問いかけるための対象物、すなわち「世間」という巨大な壁が単なる障害物程度になってしまったことに原因があると思われる。
行き場を失った懐疑、そしてどこにも属せない孤独…その結果が酒と薬物への逃避であった。こうして、主人公は「人間失格」となるのであった。
「人間失格」において、読者の多くが戸惑うのが「神の罰しか信じられない」という主人公の強烈な罪悪感(あるいは原罪の感覚)ではないだろうか。よってここでは、その罪悪感の在り処のついて述べてみよう。
罪悪感の在り処は、そもそも「世間」を理解できないことにあった。主人公はそのことを「道化」という仮面によって誤魔化していたのであるが、ふりをしているという意味では結局「不可解な世間の人々」と同じではないか、と感じていたのではないかと推測される。だからこそ、演技を見破られると大いに恥じたのだろう。自分もまたふりをする「世間」の人々と同じだと暴かれることに他ならなかったからである。
世間(社会)が不可解なものに感じられるというのは、ほとんどの人が経験することながら、たいていは何とか帳尻を合わせていくものである。ところが主人公にはそれができない。あまりに「道化」演技が上手すぎて、問題に直面する機会がほとんどなかったからだろう。その事実はまた、「世間」への疑いとも関連してくる。不可解なものであるなら、しかもそれが自分の生活と大きく関わってくるものならば、それを解体、解明しようと努力する必要がある。しかしそういう姿勢も、「道化」で世を渡れてきた主人公には身に付かない。主人公は徹底的に疑うことはせず誤魔化すことを選んだのであり、言わばその「不誠実さ」に自ら気付いてしまうがゆえに罪悪感に苛まれるのだと思われる。私もまたふりをする、「不可解な世間の人々」と同じだ、と。くり返すが、そういう意識があるからこそ「道化」を見破られた時に深く恥じ入るのである。
「世間」に馴染めない主人公は、自分が信じてもいないアウトローの側に身を寄せてみたりする(その意味で、彼の行動は反抗というより逃避である)。しかしそこも、彼が身を任せる場所たりえない。というのも、主人公は「世間」を懐疑的に見る眼が、能力が備わっていたが、それは「世間」に対置されるアウトローの主張・立場に含まれる欺瞞などをも見通していたからだ。こうして彼は、「世間」からもアウトロー集団にも身を置かない根無し草になったのであった。
どこにも属さないのであれば、確固たる自己を確立するしか手はないのだが、実はその契機が一度だけあった。それが、自分の「道化」を暴いた者の前で、自らを偽ることなく自画像を描くという行為がそれである。描き出された自画像は「おばけ」と自称するほど異形のものであったが、それを土台にして自己の解明に向かうことは十分可能であった(それは「世間」が理解できない原因の究明にも繋がる)。にもかかわらず、彼はもとの「道化」に戻った。内面を描いた「おばけ」は意識にあったが、それを追求することができなかったのだ。もし彼が、「おばけ」の時と同じくらい真摯な探求を続けていたら、事態は異なる方向へ行ったことだろう(もっとも、絶望して自殺したかもしれないが)。しかし最後まで、主人公には「世間」も(それと対置される)アウトローも不可解なままであったし、自分自身でさえそうであった。そしてそのような根無し草的生き方を突き詰めた結果が「ときは、ただ過ぎていきます」という言葉に端的にあらわれているのだろう。主人公が常に「世間」を恐れ、それに背を向けて生きるしかなかったのは、「世間」に対置できるものを自らの中に構築できなかったからだと言えよう。
◎「ふりをする」ことへの懐疑
父親の集会の時、面前では誉めて裏では悪口を言う人たちの様子を不可解なものとして描写している。いわゆる「ホンネとタテマエ」であり、そんなことは誰でもやっている。また本心のみが飛び交う世界が果たしてどんなものか想像すれば、それをただ批判するのは安直すぎるだろう。しかしその理由で、「ふりをする」ことを本当に正当化できるのだろうか?もし正当化できるのであるとすれば、どうしてタテマエに対しての批判や、時には慟哭さえ漏れ出てくるのだろうか?要するに、誰しもそれを完全に受け入れているわけではないのだ。そして誰もが、大なり小なり「ホンネとタテマエ」への懐疑を抱きながらそれを利用しつつ生きているわけである。
ところで、本作の主人公はどうであろうか?世間的な「ホンネとタテマエ」を理解できない(し疎んじてもいる)彼は、「道化」という独自の身の処し方を開発する。「道化」に関して注目すべきは2点ある。一点は、その道化が心中の時にさえも表れていること。もう一点は、それを見破られた時に激しい羞恥心にかられることである。どうして羞恥心にかられるのだろうか?それこそ、主人公が「ふりをする」行為に対して懐疑と嫌悪感を抱いているからに他ならない。だから、道化がふりに過ぎないと見破られることは、自分が理解できない存在として見なす世間の人間と同じ恥ずべきことをやっていると指摘されることに他ならなかったのだ。そして主人公は、一度だけ自分の内面と真剣に向き合い、嘘偽りの無い内面世界を外界に表明した。それが「おばけ」だったのである。
しかし主人公は、堀木との出会いなどを通して気付く。「世間」とは巨大な何かに支配されていたり、あるいはその枠組みを誰もが共有しているわけではなく、個人の思想がかなり反映されたものである、と(この辺り、『脱走と追跡のサンバ』で出てくる世界を統括するコンピュータを私は思い出す)。つまり「世間」などというものは、願望の投影に過ぎないのである。これは主人公が、「所詮「世間」などというものは集団幻想に過ぎない」ということを理解した瞬間であったと言える。これによって、主人公は「世間」に、あるいは一般の人に前ほど怯えなくなった。こう書くといかにも喜ぶべき出来事のように思えるが、実はその認識によって主人公は自分の内面と真剣に向き合う機会を永久に失ってしまったのであった(今私は「所詮」という言葉を使ったが、「所詮」という思いからは真剣な問いかけは決して生まれない。あるのは斜に構えた姿勢だけだ)。
主人公はふりをする行為への懐疑から本質的に免れえてはいない。それは「善と悪」「罪と罰」の話を冗談半分に始めながら最後は本気になってしまったことから明らかである。さりとて「おばけ」の時に見せた自己の深奥との邂逅やその表現はもうできない。周囲に「道化」を見破ることのできる人間がいなかったことも大きいが、何より真剣に問いかけるための対象物、すなわち「世間」という巨大な壁が単なる障害物程度になってしまったことに原因があると思われる。
行き場を失った懐疑、そしてどこにも属せない孤独…その結果が酒と薬物への逃避であった。こうして、主人公は「人間失格」となるのであった。
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