これは分析対象が1990年代半ばまでであることが大きく影響しているのだが、例えば「泣きゲー」ブームの中核となったkanonに対するベタな反応(泣いた、感動したと言ってネタにしない)は著者の言う「オタク」像とはズレているように思える。
っと話が逸れてしまったので元に戻って・・・kanonに対する反応を、突然変異的なものと見なすこともできる。たとえば「エロゲーなんてありえないシチュエーションとネタに溢れているジャンルで、物語に素で反応しているヤツらが出てきた」という具合に。おそらく、この見方はある程度一般性を持ちうるように私には思える(波状言論などを見る限り、いわゆる「オタク第一世代」の「萌え」などに対する違和感と通じる部分があるように見えるため)。しかし「君が望む永遠」の話を通じて私が言っているのは、そのまさにわかっててネタにしていると自認してる人たちもまた、本質的には何も理解していないということなのである。それを論じたのが、前掲の「『ヘタレ』と自己認識」であるが、どのキャラを選ぶか十分な必然性をもって苦悩する孝之を批判はするのに、恋愛ADVゲームをプレイして虚構のキャラを選ぶのに迷ったりしている自分のことは完全に棚上げされているのは彼らが何も理解していないことを意味している、ということだ。「自分のレビューは単なる感想です」というレビュワーも、あるいは割と突っ込みを入れたり人物配置なども考えるレビューを数多くものしているレビュワーにもそのような視点が完全に欠落しているところから、私はそれが共通する「病理」だと見て取った。それでも、「わかってやっている」というレビュワーの大半は、自分の文言が単なるエクスキュースにすぎないことを認めようとはしないだろう。
馬鹿馬鹿しいぐらい簡単に構造が読み取れる。だから凡庸
とまあそういうわけで、(別にエロゲー云々に限らないのだが)それ以来「わかってやっている」という言い回しを信用しなくなった。あるいはもしかすると、私の一連の批判はたとえば「エリートオタクがダメオタク」を批判するものと見なす人がいるかもしれないが、
党派性の問題?俺はそれも信用していない。虚淵玄
君望のそれは、特殊性よりもむしろ凡庸性を表している。彼らの「わかってやってる」はつまりはその程度なのだ。
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