渡辺京二『無名の人生』(文藝春秋、2014.8)を読んだ。いつもだとその難解な文章に手を焼いていた渡辺氏の文章だったが、インタビューを本にしたせいで読みやすくなっていた。歴史・文明の論文が多かった彼の著作だったが、意外にも、自然体の渡辺京二が隣の好々爺のようにさらりと語った幸福論・人生論だった。
水俣の作家・石牟礼道子さんを世に紹介し彼女の編集を担当していた渡辺氏は、彼女の文学の根本には、「小さな女の子がひとりぼっちで世界に放り出され泣きじゃくっているような、…この世のなかに自分の生が露出していて誰も守ってくれないところから来る根源的な寂しさーーそれがあの人の文学の中核」であることを紹介し、渡辺氏は「人間はみな、本来そういう存在です」ときっぱり語る。
そうして、「人間も、町並みも、自然の風景も、根本的には三つ子の魂百まで、その個性は変りようがないのです。けれども、それが世代交代することによって新たな創造があり、そこに喜びや価値観が生まれるのです。人間、死ぬから面白い。…人間、死ぬからこそ、その生に味わいが出てくる」とくくる。
本論では「人間の幸福とは、掴みどころのないもの」であるが、「自分の人生をあるがままに受け取れるかどうか、そこにすべてがかかっている」と断言する。経済成長・景気が幸福の尺度とする世の風潮に対して、経済成長がなくても生活は豊かになるという証明を、渡辺京二氏は労作『逝きし世の面影で』で提起した。幸せを暮らす術を知っていた江戸庶民の暮らし方から膨大な例証をあげている。
そのことから、「われわれは、みな旅人であり、この地球は旅宿です。われわれはみな、地球に一時滞在することを許された旅人であることにおいて平等なのです。」と、金儲けや名声を得られなくてもこの地上の光を受けたと思える「気位」が大切だと結論する。
その意味で、表題の通り、無名のまま死んでいくのが本望というのが作者の立場だ。本書はすらすらと読めてしまい、世俗的な処世訓になりかねない。しかし、石牟礼道子さんらと共に水俣病闘争の先頭にいた渡辺京二氏の言葉だけに、その言葉の重みはずっしりとしかも軽やかに伝わってくる。